『大日本史料』 6編 40 応安7年正月~応安7年5月 p.573

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豐後をさして引退く、武朝も隈府に打入、武政父の病死に愁傷して軍儀に怠りぬと聞, ける、武朝是を傳聞、筑後に向合戰し、筑後のもの共菊池に降參しけり、今川・大内, 騎を指添、合志郡に出張せしめ相戰、今川・大内・大友か大勢、菊池か兵に攻られ、, 藏主を大明に遣ける、趙秩と云ものを日本に遣ぬれは、是をとゞめ、懷良親王に〓母, として水嶋に出張して大に戰、今川駈立られ、菊池勝鬪を揚て隈府に歸る、其後今川, 武光の嫡子、隈府に城を築住居す、武威父に劣らす、親王の命を奉し、應安四年如瑤, 將軍義滿、菊池退治として下向、菊池、征西將軍泰成親王を大將とし奉り、太宰府に, と武朝詫摩原にての合戰にも、今川・大内さん〳〵に相負る、應安七年三月廿三日、, 貞世、阿蘇大宮司抔を相かたらひ、菊池の城に押寄る、武政是を聞て、武朝に五千餘, を立、肥後の國に打入り、山鹿を經て隈府の城に向ふ、武政是を聞、嫡子武朝を大將, しめて歸す、九州の探題今川貞世・同仲和、五千餘騎を卒し、應安六年五月五日博多, 去年の中になと、肥後守に受領したりしもしるへからす、猶考へし、, 〔菊池家代々記録〕, 肥後守武政, 十六代, 南朝文中三年北朝應安七年五月二十六日, 如瑤ヲ明ニ, 遣ストノ説, 南朝文中三年北朝應安七年五月二十六日, 五七三

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