『大日本史料』 6編 41 応安7年6月~応安7年12月 p.264

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も武朝とともに菊池に入御なりしなるへくおもはるゝなり、, おはせし、其供奉して武朝も宮と同しく高良へ在陣したりしなるへし、其事を申状に, し、されは菊池以下凶徒高良山沒落とある菊池は、すなはち武朝にて、それか其比高, 武朝素服の中より、宮の御在所を警固せんため、筑後まて出陣したりし也、懷良親王, ゝ菊池に引入しを、例の事にて了俊・惟村なとより沒落せしとは注進したるなるへし、, は、了俊に攻落されしにはあらて、武政か死後になりて、國人もにはかに心變して了, は自十二歳時令參勤筑州大王御陣とはいひたると見へたり、さて高良を沒落したると, 俊か陣に馳加はるさまなれは、留守のことも心もとなくして、宮とともに高良をすて, て、重而菊池江押寄せんの心遣ひあれは、宮も高良まて出御ありて、了俊をおさへて, 良山まて打出て在陣せしことをおもふに、水嶋合戰の後了俊か敗軍の恥をすゝかんと, 人も筑州大王と稱し申たるにて、宮の大かた筑後にのみおはしましゝことしるかるへ, 近年は大かた筑後にのみ御坐ありし故、其比世には筑後宮と稱したてまつりしことは、, 前の志賀氏房か状にも見へたれとも、それは武家より申たることなるを、かく宮方の, 其事十月の半に注進したれは、武朝か菊池に返りしは九月の末のことにて、其比宮に, 南朝文中三年北朝應安七年十一月十二日, 二六四

  • 南朝文中三年北朝應安七年十一月十二日

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  • 二六四

注記 (16)

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