『大日本史料』 7編 27 応永24年2月~同年8月 p.12

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〔鎌倉大草紙〕, は逸見縁者なれは是を頼み、色々甲斐の事望申ける、去程に甲斐の國は關東の御分國に, ム、兼胤降ル、是日、信滿、甲斐木賊山ニ自殺ス、, ひ、甲州半國石澤五郎に玉はり、それより代々初は本郡を知行有、東郡は加藤、西郡は, 逸見給はりしを、後には一圓に武田拜領して加藤は被官に成、逸見は公方へ御奉公の躰, 也、西郡の名字の地斗知行有しかは、いかにもして武田を絶して甲州一圓に守護せはや, の大將なりしかは、頼朝の御時に加賀見・小笠原は信濃國の守護となり、信州にうつり給, るの郡へ馳出、二年に及て合戰すといへとも多勢に無勢不叶、終には打負、信滿は甲州, 倉より御勢を被向、大將は上杉淡路守憲宗也、千葉は早々降參す、武田安藝守信滿もつ, と持氏公へ盡忠功ける、今度禪秀逆心して京・鎌倉より退治被成しかは、武田安藝守入, 道明菴は禪秀の小舅也、千葉修理大夫兼胤は聟也、兩人ともに持氏の寵臣二階堂三河守, て基氏の御所の御時より鎌倉へ出仕申といへとも、明庵も禪秀の事に恐れ不參候間、鎌, 上甲斐國の住人に逸見中務丞有直と云者あり、古より逸見・武田・小笠原三家は甲州, 都留郡木賊山にて自害してうせぬ、法名明庵道光、于時應永廿四年二月六日の事也、, ○群書類從卷三, 百八十二所收, 略, ○上, 應永二十四年二月六日, 一二

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  • ○群書類從卷三
  • 百八十二所收
  • ○上

  • 應永二十四年二月六日

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  • 一二

注記 (20)

  • 1696,648,72,439〔鎌倉大草紙〕
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