『大日本史料』 9編 6 永正12年是歳-永正14年6月 p.422

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城主、無幾而死、無子、小田氏治命勝貞爲後、居其城, 候すま共、御逗留候て、御そたて候、それ故こ、終ニ兩夫こまみえらもす、貞, 多治比を我々こ弘元御ゆつり候へ共、井上中務丞渡候はて押領候、然共, 二十五日、毛利興元卒ス、子幸松丸嗣グ, らんすてらまかたく候て、我等そたてられ候ためはかりこ、若御身にて, 京都へ被上候、誠無了簡みなし子こ罷成、大ろた殿あまり不便之躰を御, 女を被遂候、然間大かた殿こ取つき申候て、京都之留主三ケ年を送候殊, 興元も十六七之御事候と申、第一在京都之儀候條、國本之儀ゑおネせつ, 八月、遂攻城陷之、斬五郎左衞門、而致城小田政治、政治以範宗弟治部少輔爲, 調法仕候て、多治比へよひ上、さ候て興元之御事、元就十五之時御下候、其, けらきす候つる處、中務丞不思議こ死去仕候間、其後井上肥後守、伯耆守, 間興元たのみ申候へは、力もつよく候つる處、又幾程なく元就十九歳之, 一我等は五歳にて母こはなれ候、十歳にて父こはなれ候、十一歳之時、興元, 〔毛利家文書〕一, 「弘治四八月日御書」, 永正十三年八月二十五日, 書状, 毛利元就, 治部少輔, 之ニ替ル, 死後勝貞, 興元ノ上, 洛, 下向, 永正十三年八月二十五日, 四二二, 下向

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  • 書状
  • 毛利元就
  • 治部少輔
  • 之ニ替ル
  • 死後勝貞
  • 興元ノ上
  • 下向

  • 永正十三年八月二十五日

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  • 四二二
  • 下向

注記 (27)

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