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川の城を攻給ふ、城兵防戰す、, 成火炮ニ中テ、左ノ股ニ創ツキ倒ル、敵兵首ヲ取ラントス、内藤家長、弓ヲ取, 青田山の附城に小笠原與八郎長忠か一黨を置、二藤, 給ふ, 山には岡崎の兵、金丸山には久野三郎左衞門宗能を置玉ふ, テ退ク、神祖是ヲ見玉ヒ、成瀬藤八ヲ〓信成カ功ヲ賞シ、其疵ヲ問玉フ, テ其敵ヲ射〓スヿ三人、其〓ニ信成ガ從士岡田甚左衞門馳來テ、信成ヲ扶, 數百挺ヲ以テ、城中ニ向テ亂發ス、城中ヨリモ火炮ヲ放テ是ヲ防ク、内藤信, 水戸城主佐竹義重、小田氏治ノ屬城常陸海老島城ヲ攻メテ、平塚刑部大, ヲ降ス、, 十七日、天王山に陣して、懸, 朝野舊聞裏藁〕, 〓宮四十八十六日、是より先、公遠江國懸川に出張〓, より前、懸川にいたり, の兵、久野の砦に久野宗能、曾我山の砦に小笠原, 長忠を置給ふ事は、二月條に記す、併せ見るべし, 貞享菅沼主水書上には、十七日、懸川を攻んかため、御出馬と記す、然れ, 給ひし事知るべし、, とを、松平記、十六日には、所々に岩を構へ給ひし事を記すによまは、夫, に、去年十二月, 小笠原長忠等を置給ひし事と知らる、又是より後、廿三日懸則城攻の後、見, 付に歸り玉ふとき、河田村の砦に、酒井左衞門尉忠次、笠町の砦に山家三方, 廿八日、入山瀬より見付に歸り給ふ時、懸川城の邊に、附城を營ませ給ふ事, 濱松御在城記, を載す、是即青田山等の附城を指なるべし、おもふに今年營作成るにより, 下略, 源記、〇, 九十, 三河, 編年、, 〓名闕, 東照宮四十八, 〓宮四十八十六日、是より先、公遠江國懸川に出張し, 車ク、, 〔武徳年減, 出陣日時, ノ考, 家康懸川, ノコト二, 家康築學, 關スル考, 永祿十二年正月十七日, 八一九
割注
- より前、懸川にいたり
- の兵、久野の砦に久野宗能、曾我山の砦に小笠原
- 長忠を置給ふ事は、二月條に記す、併せ見るべし
- 貞享菅沼主水書上には、十七日、懸川を攻んかため、御出馬と記す、然れ
- 給ひし事知るべし、
- とを、松平記、十六日には、所々に岩を構へ給ひし事を記すによまは、夫
- に、去年十二月
- 小笠原長忠等を置給ひし事と知らる、又是より後、廿三日懸則城攻の後、見
- 付に歸り玉ふとき、河田村の砦に、酒井左衞門尉忠次、笠町の砦に山家三方
- 廿八日、入山瀬より見付に歸り給ふ時、懸川城の邊に、附城を營ませ給ふ事
- 濱松御在城記
- を載す、是即青田山等の附城を指なるべし、おもふに今年營作成るにより
- 下略
- 源記、〇
- 九十
- 三河
- 編年、
- 〓名闕
- 東照宮四十八
- 〓宮四十八十六日、是より先、公遠江國懸川に出張し
- 車ク、
- 〔武徳年減
頭注
- 出陣日時
- ノ考
- 家康懸川
- ノコト二
- 家康築學
- 關スル考
柱
- 永祿十二年正月十七日
ノンブル
- 八一九
注記 (43)
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