『大日本史料』 12編 6 慶長十四年正月~同十五年二月 p.747

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ケルカ、今日被成敗, 御改易同志摩守同市正も各御改易被仰付, 以下、各以目安駿府へ言上、其故ハ、上總殿行跡荒々ト, 十月廿七日、相手皆川父子三人改易、山田長門守松平隱岐守, シテ絶言語タリ、如斯之儀數ケ條書載、則上總主從江戸駿府ヘ被參上、大御, 從去比被押籠置, 所直ニ理ヲ被言上、家老各被改易、相手ハ國奉行進士清三郎也, 事アリ、此人本來關東皆川也、上總殿養父ナリ、山田長門守松平隱岐守, 〔慶長年録〕三九月、此頃、上總介死、大御所末子廿、家老之者皆川山城守言, シテ、因幡及ビ庄右衞, アリ、マタ、花井ノ事ハ、十五年閏二月三, 稿五百六十六, 門トハ、別人ナルベシ, ○朝野舊聞哀, 是上總介殿家老進士ト, 記によれハ、長門守重辰か子因幡某に當れり、慶長見聞書、, ○慶長見聞, 日ノ條、武徳編年集成ニモ見エタリ, 公事仕負、私曲有之故也、, かれは此列にありといへとも罪に及はす、隱岐といふも考ふへつらす、諸, 川父子致易、○朝野舊聞哀稿五百六十五ニ「按するに、進士清三郎ハ故薩〓, 書異事ナシ, 大三川志には讚岐とあり、とかく誤りなりと見ゆトアリ, ニ「按するに。松平隱岐守といふは疑はし、松平といふは圧右衞門か事にて、, 門切腹ス、皆, 清三郎と記せしは誤りなり、藩翰譜に、花井三九郎とあるを是とと〓」, 後ニ山田長, 今死を賜ひし條によりて參考するに、松平隱岐守は松平庄右衞門の誤り, なるへし」トアレドモ、亦信ズベカラザルガ如シ蓋シ、隱岐ハ讚岐ノ誤リ, 守殿の家臣にして、尾張國清洲の町奉行なり、慶長十二年、薩摩守殿逝去後, 浪人す、其發上總介殿に仕へしはとも諸記に載されは、こゝに國奉行進士, ○朝, 講哀稿五百六〓五二「按するに、此人大三川志には、讚岐守に作る、慶長見, 書には、山田長門守重辰か男を讚岐と記し、外に松平庄右衞門の名を載す, 野舊, 宇ィ, 皆川廣照, 父子改易, 慶長十四年十月二十七日, 七四七

割注

  • シテ、因幡及ビ庄右衞
  • アリ、マタ、花井ノ事ハ、十五年閏二月三
  • 稿五百六十六
  • 門トハ、別人ナルベシ
  • ○朝野舊聞哀
  • 是上總介殿家老進士ト
  • 記によれハ、長門守重辰か子因幡某に當れり、慶長見聞書、
  • ○慶長見聞
  • 日ノ條、武徳編年集成ニモ見エタリ
  • 公事仕負、私曲有之故也、
  • かれは此列にありといへとも罪に及はす、隱岐といふも考ふへつらす、諸
  • 川父子致易、○朝野舊聞哀稿五百六十五ニ「按するに、進士清三郎ハ故薩〓
  • 書異事ナシ
  • 大三川志には讚岐とあり、とかく誤りなりと見ゆトアリ
  • ニ「按するに。松平隱岐守といふは疑はし、松平といふは圧右衞門か事にて、
  • 門切腹ス、皆
  • 清三郎と記せしは誤りなり、藩翰譜に、花井三九郎とあるを是とと〓」
  • 後ニ山田長
  • 今死を賜ひし條によりて參考するに、松平隱岐守は松平庄右衞門の誤り
  • なるへし」トアレドモ、亦信ズベカラザルガ如シ蓋シ、隱岐ハ讚岐ノ誤リ
  • 守殿の家臣にして、尾張國清洲の町奉行なり、慶長十二年、薩摩守殿逝去後
  • 浪人す、其發上總介殿に仕へしはとも諸記に載されは、こゝに國奉行進士
  • ○朝
  • 講哀稿五百六〓五二「按するに、此人大三川志には、讚岐守に作る、慶長見
  • 書には、山田長門守重辰か男を讚岐と記し、外に松平庄右衞門の名を載す
  • 野舊
  • 宇ィ

頭注

  • 皆川廣照
  • 父子改易

  • 慶長十四年十月二十七日

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  • 七四七

注記 (40)

  • 286,672,58,558ケルカ、今日被成敗
  • 1907,662,66,1295御改易同志摩守同市正も各御改易被仰付
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