Loading…
要素
割注頭注ノンブル
OCR テキスト
ケルカ、今日被成敗, 御改易同志摩守同市正も各御改易被仰付, 以下、各以目安駿府へ言上、其故ハ、上總殿行跡荒々ト, 十月廿七日、相手皆川父子三人改易、山田長門守松平隱岐守, シテ絶言語タリ、如斯之儀數ケ條書載、則上總主從江戸駿府ヘ被參上、大御, 從去比被押籠置, 所直ニ理ヲ被言上、家老各被改易、相手ハ國奉行進士清三郎也, 事アリ、此人本來關東皆川也、上總殿養父ナリ、山田長門守松平隱岐守, 〔慶長年録〕三九月、此頃、上總介死、大御所末子廿、家老之者皆川山城守言, シテ、因幡及ビ庄右衞, アリ、マタ、花井ノ事ハ、十五年閏二月三, 稿五百六十六, 門トハ、別人ナルベシ, ○朝野舊聞哀, 是上總介殿家老進士ト, 記によれハ、長門守重辰か子因幡某に當れり、慶長見聞書、, ○慶長見聞, 日ノ條、武徳編年集成ニモ見エタリ, 公事仕負、私曲有之故也、, かれは此列にありといへとも罪に及はす、隱岐といふも考ふへつらす、諸, 川父子致易、○朝野舊聞哀稿五百六十五ニ「按するに、進士清三郎ハ故薩〓, 書異事ナシ, 大三川志には讚岐とあり、とかく誤りなりと見ゆトアリ, ニ「按するに。松平隱岐守といふは疑はし、松平といふは圧右衞門か事にて、, 門切腹ス、皆, 清三郎と記せしは誤りなり、藩翰譜に、花井三九郎とあるを是とと〓」, 後ニ山田長, 今死を賜ひし條によりて參考するに、松平隱岐守は松平庄右衞門の誤り, なるへし」トアレドモ、亦信ズベカラザルガ如シ蓋シ、隱岐ハ讚岐ノ誤リ, 守殿の家臣にして、尾張國清洲の町奉行なり、慶長十二年、薩摩守殿逝去後, 浪人す、其發上總介殿に仕へしはとも諸記に載されは、こゝに國奉行進士, ○朝, 講哀稿五百六〓五二「按するに、此人大三川志には、讚岐守に作る、慶長見, 書には、山田長門守重辰か男を讚岐と記し、外に松平庄右衞門の名を載す, 野舊, 宇ィ, 皆川廣照, 父子改易, 慶長十四年十月二十七日, 七四七
割注
- シテ、因幡及ビ庄右衞
- アリ、マタ、花井ノ事ハ、十五年閏二月三
- 稿五百六十六
- 門トハ、別人ナルベシ
- ○朝野舊聞哀
- 是上總介殿家老進士ト
- 記によれハ、長門守重辰か子因幡某に當れり、慶長見聞書、
- ○慶長見聞
- 日ノ條、武徳編年集成ニモ見エタリ
- 公事仕負、私曲有之故也、
- かれは此列にありといへとも罪に及はす、隱岐といふも考ふへつらす、諸
- 川父子致易、○朝野舊聞哀稿五百六十五ニ「按するに、進士清三郎ハ故薩〓
- 書異事ナシ
- 大三川志には讚岐とあり、とかく誤りなりと見ゆトアリ
- ニ「按するに。松平隱岐守といふは疑はし、松平といふは圧右衞門か事にて、
- 門切腹ス、皆
- 清三郎と記せしは誤りなり、藩翰譜に、花井三九郎とあるを是とと〓」
- 後ニ山田長
- 今死を賜ひし條によりて參考するに、松平隱岐守は松平庄右衞門の誤り
- なるへし」トアレドモ、亦信ズベカラザルガ如シ蓋シ、隱岐ハ讚岐ノ誤リ
- 守殿の家臣にして、尾張國清洲の町奉行なり、慶長十二年、薩摩守殿逝去後
- 浪人す、其發上總介殿に仕へしはとも諸記に載されは、こゝに國奉行進士
- ○朝
- 講哀稿五百六〓五二「按するに、此人大三川志には、讚岐守に作る、慶長見
- 書には、山田長門守重辰か男を讚岐と記し、外に松平庄右衞門の名を載す
- 野舊
- 宇ィ
頭注
- 皆川廣照
- 父子改易
柱
- 慶長十四年十月二十七日
ノンブル
- 七四七
注記 (40)
- 286,672,58,558ケルカ、今日被成敗
- 1907,662,66,1295御改易同志摩守同市正も各御改易被仰付
- 1333,1302,66,1573以下、各以目安駿府へ言上、其故ハ、上總殿行跡荒々ト
- 630,662,66,1802十月廿七日、相手皆川父子三人改易、山田長門守松平隱岐守
- 1214,676,71,2218シテ絶言語タリ、如斯之儀數ケ條書載、則上總主從江戸駿府ヘ被參上、大御
- 397,2388,55,501從去比被押籠置
- 1102,663,64,1865所直ニ理ヲ被言上、家老各被改易、相手ハ國奉行進士清三郎也
- 1668,659,71,2096事アリ、此人本來關東皆川也、上總殿養父ナリ、山田長門守松平隱岐守
- 1776,618,105,2280〔慶長年録〕三九月、此頃、上總介死、大御所末子廿、家老之者皆川山城守言
- 1372,675,45,611シテ、因幡及ビ庄右衞
- 782,668,48,1109アリ、マタ、花井ノ事ハ、十五年閏二月三
- 615,2484,42,396稿五百六十六
- 1331,669,42,617門トハ、別人ナルベシ
- 658,2483,43,402○朝野舊聞哀
- 312,1254,43,682是上總介殿家老進士ト
- 425,670,49,1713記によれハ、長門守重辰か子因幡某に當れり、慶長見聞書、
- 1934,1973,43,332○慶長見聞
- 741,673,47,1051日ノ條、武徳編年集成ニモ見エタリ
- 267,1255,46,695公事仕負、私曲有之故也、
- 498,675,48,2210かれは此列にありといへとも罪に及はす、隱岐といふも考ふへつらす、諸
- 1012,660,55,2214川父子致易、○朝野舊聞哀稿五百六十五ニ「按するに、進士清三郎ハ故薩〓
- 1893,1969,42,333書異事ナシ
- 386,670,43,1700大三川志には讚岐とあり、とかく誤りなりと見ゆトアリ
- 543,676,49,2223ニ「按するに。松平隱岐守といふは疑はし、松平といふは圧右衞門か事にて、
- 1070,2552,41,328門切腹ス、皆
- 851,655,53,2208清三郎と記せしは誤りなり、藩翰譜に、花井三九郎とあるを是とと〓」
- 1141,2550,43,329後ニ山田長
- 1480,670,55,2204今死を賜ひし條によりて參考するに、松平隱岐守は松平庄右衞門の誤り
- 1435,673,53,2188なるへし」トアレドモ、亦信ズベカラザルガ如シ蓋シ、隱岐ハ讚岐ノ誤リ
- 965,639,54,2235守殿の家臣にして、尾張國清洲の町奉行なり、慶長十二年、薩摩守殿逝去後
- 893,672,57,2204浪人す、其發上總介殿に仕へしはとも諸記に載されは、こゝに國奉行進士
- 1699,2765,41,113○朝
- 1595,677,57,2172講哀稿五百六〓五二「按するに、此人大三川志には、讚岐守に作る、慶長見
- 1551,676,55,2192書には、山田長門守重辰か男を讚岐と記し、外に松平庄右衞門の名を載す
- 1652,2765,41,115野舊
- 1114,2549,28,90宇ィ
- 665,293,44,171皆川廣照
- 622,293,42,172父子改易
- 183,734,45,469慶長十四年十月二十七日
- 177,2472,45,122七四七







