『大日本史料』 12編 8 慶長十六年三月~同年十月 p.214

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登城のうへ被相伺、則土井大炊頭殿と同道ニて、御城より、直ニ田安お比丘, 呼候へは、早速被參、手を清め抱き上被申、則おうはの局と内談あられ、其日, ほりなとにも、上ニは葵の御紋、下には武田ひしを付候樣にと、見性院殿御, 内大眞木と申所ニて、知行六百石被下置候となり、右見性院殿方へ、兩人衆, 尼屋敷の内ニ居被申候見性院殿方へ御こしの由、此人の儀き、穴山梅雪の, 差圖あられ候と也、其頃、御家へ被召出候甲州衆餘多有之、いつれも見性院, 殿へ御機嫌伺として被參候、中ニも保科肥後守正光と申たる人の儀は、取, かく此町中には置參らする儀は成間敷旨、神尾一家の者共相談致し、御三, 御母儀には、主計殿の奧むき、日頃案内の儀なれは、おうはの局の御入候所, へ、直ニ御供被申候ニ付、おうはの局ニも殊の外なる悦ひにて、主計殿を御, 後室にて、武田信玄の息女にて候を、權現樣御代より御念頃ニ被遊、武州の, 歳の三月二日、幸、主計頭殿方へ、おうはのつほね宿下りあられ候を聞合せ、, は、武田幸松殿と申、見性院殿の御養子分也、去ニ依て、其年の五月節句のの, を以て御内意有之、翌三日、主計頭殿宅より、直ニ田安へ御引移り、當分の儀, 分見性院殿の儀を大切に被致候を以、或時、見性院殿、肥後殿へ御申候は、定, 慶長十六年五月七日, 二一四

  • 慶長十六年五月七日

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  • 二一四

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