『大日本史料』 12編 18 元和元年四月~同年五月 p.1049

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返し合せ、鑓にて拂退に仕候、其内大坂方勘兵衞と兩人の間え刻込候故、兩, 候、引時も堤を東え引取申候、長曾我部人數五六十、兩人をしたひ參候、兩人, 手前にてかせき、いつれも高名仕候、山岡兵部、矢倉兵藏は南堤を西え掛り, 追拂ひ、能頸十八討取申候、爰に矢尾一町余西の川通りの堤陰に、長曾我部, せり合申候、其所え藤堂勘解由弓の者五六人にて助立參り、矢庭に討死仕, の北より和泉旗本の母衣武者山岡兵部を始七騎乘り來候、是を力として, 衞追かけ、甲付の頭四つ討取、殘ル敵をは西え追散し、東に殘ル敵をは南え, 上下三拾四五人眞丸に成り、勘兵衞下知して長曾我部旗本え掛り、二三度, のほり二三十本も見え申候、勘兵衞是を付留退せ間敷と申候て、堤え乘上, ケ見候へは、矢尾と久寶寺の間の橋を後に當、二三百宛二所三所に村立て、, 留候へと勘兵衞下知して、人數を集候へとも、漸三十人に不足候處に、川通, 久寶寺え引立候躰に見へ申候、是は長曾我部旗本と見請候間、迫合を掛打, ク勘兵衞も後へしさり、鑓にて拂退に仕候、助來候母衣の者五人は、勘兵衞, 候、勘兵衞一家渡邊作左衞門、竹越次郎右衞門討死仕候、長曾我部殊之外強, 南頭に立、長曾我部が勢の中え懸入候、長曾我部追乱候故、其儘崩候を、勘兵, 元和元年五月六日, 一〇四九

  • 元和元年五月六日

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  • 一〇四九

注記 (17)

  • 289,630,69,2233返し合せ、鑓にて拂退に仕候、其内大坂方勘兵衞と兩人の間え刻込候故、兩
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  • 524,633,67,2229手前にてかせき、いつれも高名仕候、山岡兵部、矢倉兵藏は南堤を西え掛り
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