『大日本史料』 12編 19 元和元年五月 p.211

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義利歸陣の後、旗本の輩崩れ逃ケし者共、大番輩を初、悉ク僉議セラル、于, は義利の旗本ニ有りしか、義利の前に來る、于時義利宣ふは、フイニ味方, 遣、斯て義利軍勢を進メ押行給ふ所ニ、又家康公ゟ御使北見長五郎を以、兩, 宣ひける、夫より家康公き茶臼山ニ御旗を被立、秀忠公岡山ニ御陣、尾張宰, 崩有り、敵も見へぬゆへ、サイヲトラズト宣ふたれき、守綱大ニ感之、或曰, を揚たれき、兩卿の來り給ふを不待して、諸勢時の聲を揚て、午の下刻ニ東, 西一度ニ合戰初り、惣懸りニ懸りたり、斯て兩卿茶磨山に到り給へき、家康, 將急き給へとの仰候由、路次ニふ行逢申之、然所ニ加賀の陣ニ、相圖の狼煙, と云て、内藤は馳歸ル、依之義利則軍使河野孫兵衞を以、後陣の頼將へ被仰, 公早く參着候へとも、思ひの外敵晩先手追崩す故不不飼殘多思ふ也とそ, 此時渡邊忠右衞門守綱き、人數を子息半藏重綱ニ屬ケ、先勢ニ加へ、我身, の旗本、秀忠公の旗本、并諸勢の味方崩アリ、又義利の先鋒成瀬隼人正, 備少く味方崩レ、又義利之旗本味方崩有り、, 相義利、其勢一万五千を卒し、家康公の右寄りニ備を押給ふ、斯所ニ家康公, 備、又二の先鋒竹腰山城守, 候、はやく來り給へと仰候、遠江中將殿えは、此御陣より此旨被仰遣候樣ニ, 元和元年五月七日, ○正, )正, 信, 成, 味方崩, 東軍旗本, 午ノ下刻, 戰初ル, 渡邊守綱, 元和元年五月七日, 二一一

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  • ○正
  • )正

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  • 味方崩
  • 東軍旗本
  • 午ノ下刻
  • 戰初ル
  • 渡邊守綱

  • 元和元年五月七日

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  • 二一一

注記 (28)

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