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一純友の御子を直澄と申す、, る橘遠保か爲めに害せられ、其子重太丸もともに亡ほさると云, 伊豫、讚岐、阿波、淡路を略し、阿波介國風と戰ひて利を失ひ、引退て安藝、周, 其難を遁れて、常陸國志津郷に潛居したまふ, 等と苦戰し、利なくして、小舟に乘り伊豫國に逃歸る、當國の警固に居け, 率ひて伊豫國に發向せしむ、三年庚子二月、將門關東に亡ひて後、純友は, 防等の國々を侵し、筑前國太宰府に赴く、四年辛丑五月、博多津にて好古, 將門是を養子として、平氏を冐し、相馬次郎平直澄と稱す、將門滅亡の時、, 純友、將門と事を謀るの時、直澄を質として關東に送る、, 〳〵, 天慶四年六月二十日, れと、常陸の國に志津とい, 友子として關東, 舊記に志津郡とも記した, に送らるといふ、, なほす、み或ハたゝすみとも訓せり、一説に、直, 重太丸, 澄ハ純友の弟春宮主殿首純素の子なるを、純, と題せし御系圖に、從五位下遠江權守としるせり、瑞雪軒堯佐筆の御系, ふ郡名なし、異説に志太郡といへり、志太ハ即信太郡なるへし、藤原有馬, 此時太, に、其説を取らす、大村家譜に、純友新都を阿波に建、自ら藤平親王と稱し, 官軍と戰ふ事四十九度、天慶六年癸卯四月、鳴門にて入水、行年四十九, 圖にも亦然り、されと外七卷の御系圖にハ御名のみしるせり、潛居まし, 〳〵たるとい、へハ官途の事疑ふへし、大村家譜にハ、純友の長男安藝介, 諸友、播州阿保に戰ひ死す、二男長門介諸純、豫州風早に戰死す、其子直澄, 郎良純と號して、父子誅に伏すと傳記にしるしたれとも、齟齬するか故, 難を豫州に避て大洲に在り、年經て後、純友の靈玉體を惱すに因て、一條, 藤原魚成其首を京都に獻す、奇異あるか故に御靈宮を祭るといふ、, 院永延二年戊子、勅ありて其靈を祭り、子孫恩宥を得て敍任せられ、肥前, 國高來、彼杵、藤津三郡を領すと云、然れとも當家の舊記にハ、經澄の時肥, 建ツトノ, 赴ク, ヲ阿波ニ, 純友新都, 大宰府ニ, 説, 天慶四年六月二十日, 九二三
割注
- れと、常陸の國に志津とい
- 友子として關東
- 舊記に志津郡とも記した
- に送らるといふ、
- なほす、み或ハたゝすみとも訓せり、一説に、直
- 重太丸
- 澄ハ純友の弟春宮主殿首純素の子なるを、純
- と題せし御系圖に、從五位下遠江權守としるせり、瑞雪軒堯佐筆の御系
- ふ郡名なし、異説に志太郡といへり、志太ハ即信太郡なるへし、藤原有馬
- 此時太
- に、其説を取らす、大村家譜に、純友新都を阿波に建、自ら藤平親王と稱し
- 官軍と戰ふ事四十九度、天慶六年癸卯四月、鳴門にて入水、行年四十九
- 圖にも亦然り、されと外七卷の御系圖にハ御名のみしるせり、潛居まし
- 〳〵たるとい、へハ官途の事疑ふへし、大村家譜にハ、純友の長男安藝介
- 諸友、播州阿保に戰ひ死す、二男長門介諸純、豫州風早に戰死す、其子直澄
- 郎良純と號して、父子誅に伏すと傳記にしるしたれとも、齟齬するか故
- 難を豫州に避て大洲に在り、年經て後、純友の靈玉體を惱すに因て、一條
- 藤原魚成其首を京都に獻す、奇異あるか故に御靈宮を祭るといふ、
- 院永延二年戊子、勅ありて其靈を祭り、子孫恩宥を得て敍任せられ、肥前
- 國高來、彼杵、藤津三郡を領すと云、然れとも當家の舊記にハ、經澄の時肥
頭注
- 建ツトノ
- 赴ク
- ヲ阿波ニ
- 純友新都
- 大宰府ニ
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柱
- 天慶四年六月二十日
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- 九二三
注記 (39)
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