『大日本史料』 1編 7 承平 6年正月~天慶4年8月 p.921

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とぞ聞えける、, り、其間廿代と云ふ、不審、若し純友と、直澄との間に、世次を洩したるにあ, らずや、或説に、藤原純友が養子は、平將門が末子なり、將門、純友が朝家に, ず、傳へざりしにや、友天慶の頃より、晴信が頃に至りて、六百餘年に及べ, 二心あるを悟て、世を遁れて僧となる、其子常陸國志太郡に在て、志太小, られ其子重太丸、父と共に誅せられ訖んぬ、新編纂圖を按ずるに、純友が, 國と云ふ由、純友より後、九代の事を載せたれども、直澄が事は見えず、直, 盛の家人、木曾義仲が爲に討れぬ、頼房が曾孫康方、男子二人あり、頼道、朝, 男に有信、紀年、伊王丸の三人を載す、伊王丸元服の後、良純と名乘る、有信, と紀年とが子孫は見えず、良純四代の孫武者所頼房は、門脇平中納言教, 澄父が誅せられし時、猶幼くして、朝家に名をも記されず、世の人も知ら, 至ると云ふなり、按ずるに、朱雀院御宇、天慶四年、純友、橘遠保が爲に誅せ, 系圖を見るに、純友が子從五位下遠江權守直澄より、廿代にして、晴信に, 長良卿の六男、右大辨遠經の嫡子、太宰少貳良範の三男、伊豫掾純友が末葉, 修理大夫藤原晴信は、閑院左大臣冬嗣公一男、枇杷中納言, 藩翰譜, 天慶四年六月二十日, 有馬, 九下, 門ノ末子, 純友平將, ヲ養子ト, ストノ説, 天慶四年六月二十日, 九二一

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注記 (25)

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