『大日本史料』 6編 7 康永元年正月~康永2年12月 p.200

Loading…

要素

割注頭注ノンブル

OCR テキスト

て、小松とは名け玉ひしなりといへり、, 居、得能、合田、二宮、日吉、多田、三宅、高市等ノ兵將、金谷修理太夫經氏ヲ大將ト, 〓西伊豫ノ兵船五百艘ニ取乘テ、土居カ後詰の爲ニ海上ニ浮テ、河江ニ赴, 今度頼春禮ヲ厚シテ將軍方ヘ招キ、是ニ先陣ヲ頼テ豫州ヘ押寄、土居三郎, 南海治亂記云、阿波ノ大西、讚岐ノ羽床ハ、累代大剛ノ者ニテ宮方ニ在シヲ、, 左衞門カ籠タル河江城ヲ攻ラルル、日頃義助ニ服從シタル恩顧ノ兵將、土, ク云々、, あたりすべて小松原なりしを、先侯入部せさ勢給ひし初、〓莽を切開き, 所の一にして、建武年中、南朝の忠臣大舘左馬助氏明朝臣此城に籠れり、, 按、千丈原を千町原とも書たり、荒木由路云、小松の邊をいふなるべし、此, 三郎左衞門義昌の城跡なり、, に出、又前神寺よりの不るものは、大保木よりはしむと云、, 〔愛媛面影〕桑村郡世田城墟、楠村の山上に在り、河野の本城四十一ケ, 〔愛媛面影〕宇摩郡川江城墟、川江村に在り、一名佛殿城、河野の族土居, 〔愛媛面影〕新居郡大保木、石銕山に登るに大戸より入ものは、横峰寺, 〔愛媛面影, 新居郡大保木、石銕山に登るに大戸より入ものは、横峰寺, 新居郡, 居郡大保木、石銕山に登るに大戸より入ものは、横峰〓, 世田城爐, 千丈原, 大保木, 川江城爐, 南朝興國三年北朝康永元年五月是月, 二〇〇

割注

  • 新居郡
  • 居郡大保木、石銕山に登るに大戸より入ものは、横峰〓

頭注

  • 世田城爐
  • 千丈原
  • 大保木
  • 川江城爐

  • 南朝興國三年北朝康永元年五月是月

ノンブル

  • 二〇〇

注記 (25)

  • 412,715,55,1143て、小松とは名け玉ひしなりといへり、
  • 1221,644,67,2210居、得能、合田、二宮、日吉、多田、三宅、高市等ノ兵將、金谷修理太夫經氏ヲ大將ト
  • 1106,653,64,2212〓西伊豫ノ兵船五百艘ニ取乘テ、土居カ後詰の爲ニ海上ニ浮テ、河江ニ赴
  • 1456,645,64,2221今度頼春禮ヲ厚シテ將軍方ヘ招キ、是ニ先陣ヲ頼テ豫州ヘ押寄、土居三郎
  • 1573,643,66,2234南海治亂記云、阿波ノ大西、讚岐ノ羽床ハ、累代大剛ノ者ニテ宮方ニ在シヲ、
  • 1340,647,64,2216左衞門カ籠タル河江城ヲ攻ラルル、日頃義助ニ服從シタル恩顧ノ兵將、土
  • 1003,655,51,198ク云々、
  • 522,715,63,2143あたりすべて小松原なりしを、先侯入部せさ勢給ひし初、〓莽を切開き
  • 172,634,63,2164所の一にして、建武年中、南朝の忠臣大舘左馬助氏明朝臣此城に籠れり、
  • 640,710,63,2152按、千丈原を千町原とも書たり、荒木由路云、小松の邊をいふなるべし、此
  • 1695,648,60,861三郎左衞門義昌の城跡なり、
  • 761,650,58,1717に出、又前神寺よりの不るものは、大保木よりはしむと云、
  • 273,586,103,2268〔愛媛面影〕桑村郡世田城墟、楠村の山上に在り、河野の本城四十一ケ
  • 1790,602,103,2268〔愛媛面影〕宇摩郡川江城墟、川江村に在り、一名佛殿城、河野の族土居
  • 857,611,107,2261〔愛媛面影〕新居郡大保木、石銕山に登るに大戸より入ものは、横峰寺
  • 859,600,104,332〔愛媛面影
  • 870,1014,64,1851新居郡大保木、石銕山に登るに大戸より入ものは、横峰寺
  • 866,1009,39,177新居郡
  • 872,1050,61,1804居郡大保木、石銕山に登るに大戸より入ものは、横峰〓
  • 302,279,45,168世田城爐
  • 654,282,42,123千丈原
  • 890,280,40,125大保木
  • 1826,284,44,172川江城爐
  • 1926,717,49,737南朝興國三年北朝康永元年五月是月
  • 1928,2457,36,115二〇〇

類似アイテム