『大日本史料』 6編 40 応安7年正月~応安7年5月 p.438

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文ニ而候、, 御奉公と語被申候、但松尾山とも當國とも其文章は然々不覺候、京ゟ之御書と、又, 經祐・妙祐と申候、其所謂は、祐師聖人當國ゟ御上洛之砌、京都迄藤木先祖ゟ夫丸, を被下候、其後曼陀羅ニ藤木夫婦ヲ經祐・妙祐と祐ノ字御免許、又御感状御文章之, を一人登せられ候、然者其夫丸京にて死申候、其時京都ゟ□感状を被相添、曼陀羅, は、其近邊ニ妙見分ニ餘分有は藤木ニ被下と之御文章にて候つるを、近年迄所持候, を、亂入之時失候と、長州之兄弟一口ニ御語候を、節々承候、日億ニ不限、爲被聞, せきつるはかなニと被申候事者、しかと節々日億聞候て覺申候、是か御下向之直證, 謹奉啓白、抑鎭西肥之前州小城郡松尾山光勝寺申者、忝仁王五十代桓武聖代第五王, 衆于今餘多候、是又祐師御下向眞證にて候、, 一□〓之妙顯寺日雅節々物語にて、日雅は□木長門守殿舍弟にて候、藤木先祖夫婦を, 一□萬三千八百部讀誦之明師境智院〓□直筆之文章ニ云、, 都より御下□付、又せきつるとはかなに被遊候とまて□□候、松尾山御住山之内, 子葛原親王之御苗裔平朝臣千葉別駕胤貞公・胤泰公、下總國正中山本妙寺開基、從, 南朝文中三年北朝應安七年五月十九日, 四三八

  • 南朝文中三年北朝應安七年五月十九日

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  • 四三八

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