『大日本史料』 12編 40 元和七年是歳~元和七年雑載 p.82

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二十年三月廿五日, 其年八月初頃おとり被成、ひめ君樣へ見せまいらせられ候はんよし、利長公御つゝみうた, 御入被成とも見えたれは、金澤に大躍とて流行せしは、慶長七年の事也、象賢紀略に又云、, 大田但馬を横山大膳に被仰付、御城にて御せいはい、其年三月すへに芳春院樣有馬の湯へ, 村井長明の象賢紀略に、金澤大おとりの年芳春院樣、ありまの湯へ御湯治の時云々、また, ぬたり、されは三壺記に、元和七年の夏流行のよし載たるもの、若くは元年の誤聞ならん, 伊勢おとり流行、村々へ送り渡すとありて、越中富山邊は元和元年に伊勢躍流行せしと見, くみに成、おけ結構にて、扨たき物利長公より被下、くべまはり候へは、おとり御座候中く, いふもの金澤に流行せしは、既ニ慶長七年の頃よりの事なりと聞ゆ、駿府政事録に、慶長, んしわたり申候とあり、當時世のさまおしはかるへし、扨右の如く見えたれは、伊勢躍と, せられ、おとりのならし有之、其おとりの時、村井豐後・安見おきの守・齋藤刑部、此三人鹽, 右横山大膳の書簡は、寶瞳寺に傳來せり、皆同時の書簡なる事知られける、按に伊勢踊は、, しかと、徳川家康公此に居給ふゆへに、頓て制禁せられしとなり、富山邑〕傳記に、元和元年, とあり、されは駿府には、二十年の春より流行せ, 尊報, 二十五日ノ條ニ收ム, ○中略、元和元年三月, 元和七年是歳, 八二

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  • 二十五日ノ條ニ收ム
  • ○中略、元和元年三月

  • 元和七年是歳

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  • 八二

注記 (19)

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