『大日本史料』 1編 12 康保 4年 5月~安和2年8月 p.15

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奉れとも、御陵ならむと思はるゝ處は更にあることなし、故おもふに、御父帝の後山, させ給へりし趣みえたる、その實檢使の状に、, はしまさせけるなと見えて、仁和寺の西のかた、長尾の村上といふ地にありけむこと, とみえて、後田邑陵の東, に御陵ならむと思はるゝ處もつゆ聞えす、長治三年の中右記に、仁和寺の覺行法親王, さて此御陵のことの諸書にみえたる中に、日本紀略に康保四年六月四日、辛酉、, は慥に知られたるを、今その長尾とよふわたりより始めて、仁和寺わたりまて普く尋, 大補任に山陵在村上とみえ、榮花物語に御さうそうの夜は云々、村上といふ處にそお, 北院僧房を造給ひしとき、後田邑陵と彼房の西築垣と相接たりし間、下人等誤てかの, 山陵の東邊の土を掘取たりしに依て、實檢使を立給へりしに、この邑〕上陵をも實檢せ, 西、とみえ、治承四年の山槐記七月廿一日辛未の條に、村上在仁和寺長尾とみえ、類聚, とみえ、仁安三年の人車記に、四月卅日辛酉の條に、村上村上天皇御陵、在仁和寺, 邊を掘損たりし由を聞食て、村上陵の邊をも掘損せむかと疑おもほして、實檢せさせ, 給へりしに依て思ふに、此村上陵は後田邑陵に程遠からぬ地に在けむ趣知られたり、, の村上といふ地名は亡せ、長尾といふ名は福王子村に形はかり存りたれと、其わたり, ○文略ス、上掲, ノ中右記ニ同ジ、, 略ス、, ○文, 長尾及ビ仁, 和寺邊ニ山, 近接ス, 陵ト思ハル, 後田邑陵ニ, ノ説, ル處ナシト, 康保四年六月四日, 一五

割注

  • ○文略ス、上掲
  • ノ中右記ニ同ジ、
  • 略ス、
  • ○文

頭注

  • 長尾及ビ仁
  • 和寺邊ニ山
  • 近接ス
  • 陵ト思ハル
  • 後田邑陵ニ
  • ノ説
  • ル處ナシト

  • 康保四年六月四日

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  • 一五

注記 (28)

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