『大日本史料』 2編 7 寛弘8年7月~長和2年10月 p.8

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えたる、是は荒見川, 一代要記には、葬石陰山ともいひて、異處のこと聞えたれとも、皆同所の事, て、此小山芝の御陵をさして、長坂坂東と小右記にしるされたりしものな, 鏡石の前の道を、直に千束に出る坂路を長坂とそ云へりけむ、さるにより, も云へり、この小山高さ七尺許、廻り四十四丈許ある芝山なり、樹木無し、是, なる田中に、字を小山とよふ處御火葬の跡なりと、貝原篤信の京城勝覽に, るへし、また本善寺は今其古跡は知られされと、兩京古圖を檢ふるに、鏡石, なり、石陰は石影とも書きて、拾芥抄靈所部に、石影は西園寺東、北野北と見, とに、奉葬北山長坂野とみえ編年集成には、葬北野永坂内本善寺前といひ、, 小右記に、御葬送所巖陰長坂坂東云々と見え、日本紀略、百練抄、大鏡裏書な, つへき處なりしなるへし、, の石影の瀬を云へるなれと、大かた此金閣寺, の向ひ紙屋川の東邊に本善寺あり、されは此小山芝は本善寺の前とも云, 峯より千束石拾なとをへて、丹波國に越る道を長坂越とはいへと、昔は此, の東北わたり、古はみな石陰とそ云へりけむ、又長坂とは、今鷹, 寺の舊地な, りといふ、, 屋川、, 一名紙, 園, 西, 寛弘八年七月八日, 八

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  • 寺の舊地な
  • りといふ、
  • 屋川、
  • 一名紙
  • 西

  • 寛弘八年七月八日

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注記 (23)

  • 1004,680,56,553えたる、是は荒見川
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