『大日本史料』 6編 41 応安7年6月~応安7年12月 p.179

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られ候て後、御披露候へく候、一躰ニなり申候ての後ニは、國の人々も煩あらしと, 子細候ましく候、此事しはらくは相構御披露あるましく候、事をよく〳〵とゝのへ, 御しつめ候て後、御身ニあてゝ御さた候やうニ、御はからひ候へく候、さやうにも, 肥後守護ト爲ルコト、康暦元年九月六日ノ條ニ見ユ、, したしくなり申候はん事、子細候ましく候、これは將軍家御ため國のためにて候間、, をかす、くはしく承へく候、これよりも中候へく候、恐々謹言、, 存候へは、其時國事も御さた候て給候へく候、八幡大菩薩・阿蘓大明神も御照覽候, 候へきなからは、とても治部少輔を御扶持候て、とりたてられ申へきにて候はゝ、, ○菊池武朝、高良山ノ陣ヲ撤シ、肥後ニ還ルコト、十一月十二日ノ條ニ、惟村、, へ、天下のためを存候て、如此申候間、更々僞わたくしなく候也、向後は相構御心, むつかしき事もあるへく候へは、治部少輔を面ニあてられ候て、まつしはらく國を, 阿蘓大宮司殿, 〔參考〕, 十月七日, 了俊花押, 十月七日了俊花押, 〔今川貞世), 「をうあん七十, ○征西將軍宮譜, 月十八日到来」十ニ據テ補フ, 月十八日到来」, 十ニ據テ補フ, (應安七年), 〔今川貞世), メ國ノ爲メ, 將軍家ノ爲, 南朝文中三年北朝應安七年十月七日, 一七九

割注

  • 「をうあん七十
  • ○征西將軍宮譜
  • 月十八日到来」十ニ據テ補フ
  • 月十八日到来」
  • 十ニ據テ補フ
  • (應安七年)
  • 〔今川貞世)

頭注

  • メ國ノ爲メ
  • 將軍家ノ爲

  • 南朝文中三年北朝應安七年十月七日

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  • 一七九

注記 (28)

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