『大日本史料』 7編 12 応永16年7月~同年12月 p.182

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比爭論の事有り、了俊とは不快にて有しかとも、かゝる事は内親の恨なり、此時いか, め申候由、京都へ聞へしかは、忽に可致誅伐よし、鎌倉へ被仰付しを、甥の泰範は日, り請られし處を思ひ出られ、又舍兄範氏の亡魂に恐れてかやうにはからひ給ふ、時の, てこらうへきとて、身命をなけうち〓に御訴訟申、了俊父子其身安穩にて、漸々遠州, 服して今川五郎と名付られける、是かの御劔相傳の人なれは、家督を繼へき器を天よ, 貞世に氏家の御跡をつかしめ玉ひき、, 人皆感嘆稱美しける、, 家督を了俊に讓り給ひける上はとて、泰範八歳の時鎌倉へ下し、建長寺へ入室して〓, 其子氏家とて有しも、, 其弟泰範はいまた幼稚にて御座けれは、祖父心省の次男, を頼みて公方へ申上け、元, 氏家に渡し早世有り、氏家また臨終の砌、弟の泰範に讓りける、然れとも祖父心省の, 然れとも舍兄範氏の最後に到て竜丸の劔を, 其比今川了俊藤澤に居住して、氏滿公と一味し、逆心をすゝ, 一泰範は上總介にて、仲秋の後に侍所を給はりけり、明徳二年辛未の亂にも、若年にて, 堀越川合中村を懸命の地に安堵し、此所にて□居有り、, 御所の御供に參り、内野合戰に高名して、手勢數多討死し、御袖御判の御感書を被下、, 其後京都に久敷伺公し、應永六年十二月、大内義弘泉州にて合戰有りし, 〔今川記〕傳記上一心省入道の子息數多有り、一男範氏、左馬介・中務大輔と申ける、, 食にて有りしを、了俊めし上せ、細川岩栖院殿, 應永十六年九月二十六日, ○下略、應永七年正, ○明徳二年十二月, ○永泰院殿細, 月十一日ノ條參看、, 川頼之ノ誤カ, 三十曰ノ條參看, ○中, ○中, ○中, 略, ○中, 略, 略, 略, 侍所ノ所, 司トナル, 内野合戰, トナル, テ元服セ, 入リ〓食, 貞世招キ, タメニ辯, 〓ス, 建長寺ニ, 應永ノ亂, 後貞世ノ, シム, ニ功アリ, 應永十六年九月二十六日, 一八二

割注

  • ○下略、應永七年正
  • ○明徳二年十二月
  • ○永泰院殿細
  • 月十一日ノ條參看、
  • 川頼之ノ誤カ
  • 三十曰ノ條參看
  • ○中

頭注

  • 侍所ノ所
  • 司トナル
  • 内野合戰
  • トナル
  • テ元服セ
  • 入リ〓食
  • 貞世招キ
  • タメニ辯
  • 〓ス
  • 建長寺ニ
  • 應永ノ亂
  • 後貞世ノ
  • シム
  • ニ功アリ

  • 應永十六年九月二十六日

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  • 一八二

注記 (51)

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