『大日本史料』 7編 25 応永23年8月~同年雑載 p.106

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の子共あまた出來、皆鎌倉に祗候有り、母方の祖父の家を繼、上杉を名乘けり、され, 留討死し、大將達は箱根山へたとり〳〵にけ上り、かの別當に案内させ、三嶋に落著, 國清寺に籠り、敵を爰にてさいきりとめんと密談し、持氏公と管領は箱根別當御供申, 秀方へは國々より一味の人々加勢有、千葉・小山を初め數萬騎六本松へ押寄ける間、, しのひて駿河國瀬名へ御移りありける、御跡より參りし人々は、是はゆめ程も不知し, は、御館に籠るへきやうなく、持氏公も管領も打連て肩瀬・腰越にかゝり、大磯・小, る程に、今川三河守・畠山伊豆守と名乘り、兩人爰にて討死也、此三河守は上杉扇谷, 同四日、佐介よりも合戰を初め、日夜三日せめ戰ひ、敵味方悉つかれ果ける折節、禪, は此人々も持氏の御身にかはり、所々に討死也、去間敵軍亂入、佐介に火をかけしか, 御所方には梶原但馬守・椎津出羽守・上田上野守・疋田右京進等討死し、一陣破れぬ, 給ふ、爰許にて評定をこらし、先御座の體にて、木戸將監を初め御近習の人々名越の, 中務大夫朝顯の孫也、朝顯の息女今川範滿, れは殘黨まつたからす、敵方には岩松・澁川きをひかゝり、國清寺に火をかけせめけ, 磯を過行て小田原の宿に落著給ふを、土肥・土屋夜討に寄ける間、上杉兵部大夫等殘, の内室と成て、上杉式部大夫朝廣以下, 範政, 二男, 應永二十三年十月二日, 一〇六

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  • 範政
  • 二男

  • 應永二十三年十月二日

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  • 一〇六

注記 (19)

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