『大日本史料』 8編 17 文明17年2月~同年12月 p.440

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を知らされは、味方勝時を作り、諸兵勇をなして退陳す、, 山東伊東合戰并薩州祁答院澁谷合戰之事, 家累代の古敵なれは、動もすれは太守の領土を侵んとする事度々也、急に, 兒島に馳參る、誠に見物貴賤耳目を驚さり、其中祁答院の澁谷は、早く鹿兒, 退治を加られすは、後の大事たるへしと評義一決し〓れは、其催促に隨つ, 守祐國討死しけれは、敵兵も既に弱り、或は痛手を負、或は討るゝもの其數, て、三ケ國の地頭城主、おもひ〳〵に甲鎧を我劣しと鎧、夜白引も切ら勢鹿, 島に到著して扣へ居々るか、如何おもひらるにや、其夜密に鹿府を發し、己, も急々なれは、先澁谷退治を閣れ、文明十六年、諸軍〓肥へ馳進、六月廿日の, か居城祁答院へそ逃歸る、此時は野心無疑、則退治有へられとも、〓肥出陳, 三國擾亂記, 曙より、矢合の鏑を射て、敵味方入亂鬪ひ々るに、伊東か軍忽破め、伊東長門, 六月十二日、公自將救飫肥、明日次於末吉、十七日、先遣, 北郷敏久、樺山長久、村田經安等、將二千餘騎踰白木俣、軍酒谷權現尾、明日又, 忠國公より三代の太守、陸奧守忠昌公と申奉る、去程に、山東伊東の某は、當, 〔島津國史, 遣國久、忠廉等、將二千八百餘騎、興敏久等會、會眞幸兵、烙栗峰、霧島等聚落、志, 聚八下所收, 三○舊典類, 圓室公, 十一, 重慶討伐, 武久澁谷, ヲ閣ク, 文明十七年六月二十一日, 四四〇

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  • 聚八下所收
  • 三○舊典類
  • 圓室公
  • 十一

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  • 重慶討伐
  • 武久澁谷
  • ヲ閣ク

  • 文明十七年六月二十一日

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  • 四四〇

注記 (26)

  • 601,617,67,1630を知らされは、味方勝時を作り、諸兵勇をなして退陳す、
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  • 716,611,71,2193守祐國討死しけれは、敵兵も既に弱り、或は痛手を負、或は討るゝもの其數
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