『大日本史料』 10編 20 天正元年雑載~同2年正月 p.578

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にいへり、, 古骨を堀出しゝ故に、文政二年己卯、土人石を建て其標とせり、, 垂水郷, 長及ひ島津の援兵、喜入攝津季久等と共に奮撃して、是を破る、兼亮・重興遁れて、, 笠佛首塚入船城後門の前面にあり、天正二年、當城の戰に戰死せる者の首塚なり、, 稍高し、東南西の三方は野岡にて、北は絶壁なり、早崎營は是より北に當り、岡阜, 笠佛は其地名なり、往年塚の邊にありし樟の大樹倒れ、其址を陸田に開きしに、屡, 本邑に歸る、かくて重興力盡て、其領地田上・高城・新城等、都合五ケ所を以て降, 接連して、相去る事十四・五町なり、天正二年、新納忠元等陣營なりしこと、上文, 茶園ケ尾營入船城の後にて、一町許隔れり、一名茶園ケ城と云、其地勢入船城より, 屡利なきは、重長吾黨を離れて敵に降れる故なりとて、重興と共に禰寢を侵す、重, 牛根郷, 重興と議し、我軍の, 本城往古は下之城と云ふ、伊地知氏の城址なり、〓中同二一年、肝付兼亮、, 本城往古は下之城と云ふ、伊地知氏の城址なり、, 天正二年正月十九日, 同二年、肝付兼亮、, 一書に兼亮を, 嗣く、是を以て一説の誤りを知へし、亮、或は輔に作る、當時の文書兼亮と書ス, 兼續とするは, 非なり、兼續は永祿九年に卒し、長子良兼嗣く、良兼は元龜二年に卒す、其弟兼亮, ○中, 略, 首塚, 天正二年正月十九日, 五七八

割注

  • 一書に兼亮を
  • 嗣く、是を以て一説の誤りを知へし、亮、或は輔に作る、當時の文書兼亮と書ス
  • 兼續とするは
  • 非なり、兼續は永祿九年に卒し、長子良兼嗣く、良兼は元龜二年に卒す、其弟兼亮
  • ○中

頭注

  • 首塚

  • 天正二年正月十九日

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  • 五七八

注記 (26)

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