『大日本史料』 10編 25 天正2年10月~同年是歳 p.90

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そのかくれなき事候、しかる處に、朝倉かの一國を存知の時より公用減少せしめ候て、, 大衆等に對して私の力をはけまし、わきまへを致して、今日まて法會をたいてん申さす, けられ候はゝ、寺社ともに再興のはしめたるへく候、去年以來は無足たりといへとも、, 是はかすかの神詫によりて、天下万人安穩のために、白川院御寄進として、康和, 運たるへく候へは、その砌にいたりて必々もとのことく返しつけられ候はゝ、當門の面, 一、坪江の庄は、同き神前にをきて春秋の兩季に、三十講と申ろんきの事あり、此料所, く、かの二ケ所一圓に直務申候はては、大法會の義とゝのへかたく候、此たひきと仰つ, 兩庄を全くは寺納せすといへとも、當知行の筋目はかはる義なく候き、所詮先規のこと, を以て僧衆六十餘人つゝにてつとめ候、これも門跡よりとりおこなはせ申候、, 右、此兩庄は、代々當門跡として徃古より支配せしめ、法會以下を嚴重に申付候、此段, 十七年いまにたいてん申さす候、, 候、さりとては天下への忠節無比類よし、叡感の義候、此上にをきて越州やかて御理, 是は天下太平のために、後深草院御寄進として、正應元年より當年まて、二百八, 二年より當年に至りて、四百七十五年たいてんなし、, 天正二年十一月三日, 朝倉氏越前, ヲ領シテ以, 來公用減少, 坪江莊, 九〇

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  • 朝倉氏越前
  • ヲ領シテ以
  • 來公用減少
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  • 九〇

注記 (20)

  • 919,682,60,2283そのかくれなき事候、しかる處に、朝倉かの一國を存知の時より公用減少せしめ候て、
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