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七年の間に、御子三人までまう〓玉ひしにあたれり、, 玉ひしといふ事、尾州の荒川の傳へ, 寄近村にて卒せらま、光源院殿も御子をたつさへて、おなしくあくれすみ, 玉ひしと、高橋氏の傳へにいへるによれば、永祿四年より十年まで、りつか, 義廣は春秋いくばくにて卒し玉ひしにや、詳ならざれども、高橋氏の傳へ, ひし永祿四年には、御年十七なりと見えし、荒川家にて二男一女を産まさ, に見ゆ、これによれば、天文十四年の御生にして、荒川甲斐守義廣に嫁し玉, をはしめ、三州の寄近村高橋, 氏の傳へ等に見えたり、甲州は永祿七年に罪を蒙りて牢人し、同き十年に、, とあり〓、永祿十年には、すでに御孫をもたせ玉ひしなまば、光源院殿より, に、, 寛政覺書, に見ゆ, ル故、荒川家ノ名跡ヲ相續シ、我ヲ祠ルヘシト宣テ、荒川家重代ノ御系圖, 并御籏、武具、馬具等ニ至マテ、悉ク利隆ニ讓與シテ、竟ニ永祿十年丁卯九, 月廿九日、卒シ玉フ、利隆働哭ノ餘リ、武家ノ志願ヲ絶テ入道ス、了清ト號, 後、利隆力家ニ隱居シ玉フ、義廣公御病氣ノ砌、利隆ヲ召サレ、汝外孫タ, ス、因テ荒川ノ本姓ヲ憚リ、先祖居所ノ地名ヲ以テ、改メテ高橋ト號ス、, 〓橋入道了清、中神藤左衞門子也、母君ハ義廣公之女也、義廣公沒落ノ, 同利隆, 荒川義廣, 義廣, 義廣註略、, 天正十二年八月十一日, 八四
割注
- 寛政覺書
- に見ゆ
- ル故、荒川家ノ名跡ヲ相續シ、我ヲ祠ルヘシト宣テ、荒川家重代ノ御系圖
- 并御籏、武具、馬具等ニ至マテ、悉ク利隆ニ讓與シテ、竟ニ永祿十年丁卯九
- 月廿九日、卒シ玉フ、利隆働哭ノ餘リ、武家ノ志願ヲ絶テ入道ス、了清ト號
- 後、利隆力家ニ隱居シ玉フ、義廣公御病氣ノ砌、利隆ヲ召サレ、汝外孫タ
- ス、因テ荒川ノ本姓ヲ憚リ、先祖居所ノ地名ヲ以テ、改メテ高橋ト號ス、
- 〓橋入道了清、中神藤左衞門子也、母君ハ義廣公之女也、義廣公沒落ノ
頭注
- 同利隆
- 荒川義廣
表組
- 天正十二年八月十一日
キャプション
- 義廣
- 義廣註略、
柱
- 八四
注記 (25)
- 1101,641,54,1561七年の間に、御子三人までまう〓玉ひしにあたれり、
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