『大日本史料』 12編 1 慶長八年二月~同九年二月 p.569

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〔參考〕, の馳走は、中々言葉にも述難し、家中の諸侍、肥後にうつるは百騎計、みなみ, の方へ立越、名所舊跡見物せんと存するはいかにと有けれは、清正、最の仰, 倉ノ地一萬石ヲ賜フ、, かなひ、都へ上せ玉ひけり、宗茂公は、京都、南都、和泉の境、心靜に遊覽ありて、, なり、御心に任せ候處、清正か馳走の一ツ成へしとて、旅行の事共懇に取ま, て、心靜に休息し、滿足此上も候はす、然れとも、某暇ある遊人にて候へは、都, な、先知相違なく充行はれて棲付けり、其餘は他國へ行もあり、又は民間に, 年の春まて、肥後にて過し給ひけるか、清正に宣ひけるは、此間御芳志に依, 其後、慶長八年、再ヒ縣城ヲ築ヒテ、松尾城ヨリ〓レリ、, 閑を求て、隱逸の士となるもあり、おもひ〳〵にかた付けり、斯て宗茂公、翌, 前柳川城主立花宗茂江戸ニ至ル、尋デ、幕府、宗茂ニ、堪忍分トシテ、陸奧棚, 滅亡ノ後、天正十六年戊子七月、豐前國ヨリ日向ニ徃リ、松尾城ニ住居セリ、, 〔日向國舊地考〕延岡の城下、舊名縣, 〔立齋舊聞記〕中宗茂公、肥後に至て、高瀬と云所に御座ありけるか、清正, ○下, 略, 後、宗茂, 關ケ原役, 加藤清正, 宗茂畿内, ニ厚遇セ, ヲ遊覽ス, ラル, 慶長八年是秋, 五六九

割注

  • ○下

頭注

  • 後、宗茂
  • 關ケ原役
  • 加藤清正
  • 宗茂畿内
  • ニ厚遇セ
  • ヲ遊覽ス
  • ラル

  • 慶長八年是秋

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  • 五六九

注記 (26)

  • 1689,864,75,206〔參考〕
  • 1094,685,70,2207の馳走は、中々言葉にも述難し、家中の諸侍、肥後にうつるは百騎計、みなみ
  • 505,680,73,2212の方へ立越、名所舊跡見物せんと存するはいかにと有けれは、清正、最の仰
  • 1340,592,78,691倉ノ地一萬石ヲ賜フ、
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