『大日本史料』 12編 17 慶長十九年十二月~元和元年三月 p.799

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民このよしをつたへきゝて、おそれをのゝく、しかりとい〓とも、程なく大, から渠か首をは〓むといむしに、捧庵詞なくして宿所に歸る、後國中の人, 見ヲ出テ、肥後國ニ赴ク, るにより、熊本を守らしむへからす、筑後境の南關屋城にうつしをき、渠か, ときき、正之、正重兩人、忠廣か繼母を率ゐて本丸にうつり、美作をも同所に, 幕府、使番阿倍正之、朝比奈正重ヲ肥後ニ遣シテ、其國事ヲ監セシム、, もむき、國政を沙汰す、この年、忠廣か家臣加藤美作某、本多上野介正純より, 書状をこはひ得〓、熊本城の留守たらむとす、正之、美作か大坂に内通する事, 阿倍正之, をき、別人をし小熊本を守らしむへし、美作しゐて異儀に及はゝ、正之手つ, を察し、正重とゝもに、ひそろに忠廣か謀臣久我捧菴某を招き、美作隱謀あ, 〔寛政重修諸家譜〕, 妻子を質として、下川又左衞門某にあつき置へし、もし美作したかはさ〓, 元和元年二月、仰をう〓, 〓あはり〓、朝比奈源六正重とゝもに、加藤肥後守忠廣か領知、肥後國にお, 〔家忠日記増補〕, 二月六日朝比奈源六郎、安倍四郎五郎監使ト〓、伏, 廿三日丙申、天晴、仙洞點取御聯句アリ、御連衆、仙洞、予、泰重、清壽等也、, 四郎五郎、四, 郎右衞門, 六百, 四十, 二十, 四, 四二, 作大坂ニ, 臣加藤美, 忠廣ノ家, 通ズトノ, 嫌疑, 元和元年二月六日, 七九九

割注

  • 四郎五郎、四
  • 郎右衞門
  • 六百
  • 四十
  • 二十
  • 四二

頭注

  • 作大坂ニ
  • 臣加藤美
  • 忠廣ノ家
  • 通ズトノ
  • 嫌疑

  • 元和元年二月六日

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  • 七九九

注記 (32)

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