『大日本史料』 12編 2 慶長九年三月~同十年二月 p.408

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助けむのため、松平與一郎忠正、植村出羽守家政、三宅惣右衞門康貞とゝ, 野の城主久野三郎左衞門宗能、御摩下に屬すといへとも、一族淡路守宗, もに、彼城をまもる、三月七日、掛川西宿のたゝかひに、定〓陣頭にすゝみ、, 盆、彈正忠宗等は、今川家に内通し、久野城を攻むとはかりしかは、これを, 面せすして、これを追かへさしむ、其後、田峯の小大膳定利は、定盈に就て, に屬し、定〓も旗下に參るへきむね、申すゝむといへとも、定盈、其使に對, 臣今泉四郎兵衞延傳に、兵四十騎を副て戰場におもむかしむ、延傳、酒井, 忠次か手に屬し、敵數多をうちとる、二年、武田信玄の臣秋山伯耆守晴近、, 五郎左衞門康高につゝいて川を渡し、敵數輩をうちとる、十二年正月、久, 原美作守某、中泉の東室井の渡り、西か崎に出張するのとき、定盈、大須賀, すゝみ軍功あり、元龜元年六月、姉川の役に、定〓、病によりて出陣せず、家, 家臣菅沼彌太郎某等、鎗を合せて力戰す、このとき、同族三五郎正宅、敵兵, 笠原七郎兵衞某をうちとる、十九日、堀江城を攻たまふのときも、先陣に, 東三河に出張するのとき、田峯長篠の同族、をよひ作手の奧平等、武田家, 御摩下に屬す、天正元年、信玄、兵を率ゐて、野田城を攻ることはなはた急, 慶長九年七月十八日, 宗能ヲ助, 定〓久野, ケテ久野, 城ヲ守ル, 四〇八

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  • 宗能ヲ助
  • 定〓久野
  • ケテ久野
  • 城ヲ守ル

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  • 四〇八

注記 (21)

  • 1355,702,77,2128助けむのため、松平與一郎忠正、植村出羽守家政、三宅惣右衞門康貞とゝ
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