『大日本史料』 12編 31 元和五年七月~同年十月 p.110

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月、水野出雲守重仲, な名家七人あり、神領を分割し、奧熊野の事を指揮す、堀内氏といふもの、, 地なり、淺野氏城を築くの時、寺を城西に移し、其跡を以て城地とす、東仙寺, 圍み、城樓、密樹の中に挺出して、勢雄偉なり、此山舊は、東仙、宗應の二蘭若の, 邸宅市〓棟を連ね、甍を並へ、區に分れ、齊く列り、熊野地の民舍、其東の麓を, 築き、四方に池を堀りて、城の形をなす、人呼むて堀内といひ、遂に氏とす、是, 此地に城搆をなす始めなり、慶長五年、堀内氏亡ひ、淺野家封を本國に受〓, 功畢らす、元和五年、淺野氏封を藝州に移す、忠吉も備後三原に移お、同年八, て、淺野右近大夫源忠吉、奧熊野を統領す、始めて地を相て、當城を經營す、土, にのそみ、東大海を眺觀し、曠野南に開け、千穗峯、神倉の峻嶽西を塞を、其間, き源爲義の女丹鶴姫の建立にして、山號を丹鶴山と以ふ、故に文人、當城を, し、新宮十郎行家己の邸を下熊野地村に搆ふ、戰國の頃、新宮七上綱と稱す, 他疆より來り、威武を以て此邊を押領し、今の城下の内、全龍寺の地に砦を, といふ、其地周十町許、一の小山、熊野川の南の海口に特起して、北の方深淵, 水野土佐守重上の代に至り、寛文七年閏二月、更に増修經營し、土功を畢ふ, 采邑を此地に受け、淺野氏の規模を襲を、, 舊の采地は遠, 州濱松城なり, 堀内氏, 新宮七上, 綱, 元和五年七月十九日, 一一〇

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  • 舊の采地は遠
  • 州濱松城なり

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  • 堀内氏
  • 新宮七上

  • 元和五年七月十九日

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  • 一一〇

注記 (23)

  • 978,639,58,545月、水野出雲守重仲
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