『大日本史料』 3編 1 応徳3年11月~寛治4年雑載 p.303

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由有勅答、仍武衡、家衡已下賊首被棄路次云々, て矢をぬかんとす、景正ふしなから刀をぬきて、爲次かくさすりをとらへ, あり、これも聞えたかき者なり、つらぬきをはきなから、景正か顏をふまへ, りとてのけさまにふしぬ、同國のつはもの三浦の平太郎爲次といふもの, 射て敵を射とりつ、さてのちしりそき歸りて、かふとをぬきて、景正手負た, 者あり、先祖より聞えたかきつはものなり、年わつかに十六歳にして、大軍, めよりてたゝかふ、城中よはひ振て、矢の下る事雨の〓し、將軍のつはもの、, 射つらぬきて、かふとの鉢付の板に射付られぬ、矢をおりかけて、當の矢を, の前にありて、命をすてゝたゝかふ間に、征矢にて右の目を射させつ、首を, これにはまさりたるところなりといひて、二人相具して、沼柵をすてゝか, 疵をかうふるものはなはたし、相模の國の住人鎌倉の權五郎景正といふ, なさはにうつりぬ, 城外見付切〓了、太守征伐功終、雖被申上勸賞之由、爲私合戰、非公方戰忠之, 〔奧州後三年記〕上たけひらかいふやう、金澤の柵といふ所あり、それは, 事秀武所申太守也、金澤燒落之後、家衡擔夫ノ如シテ、相交賤者落行之所、於, 前陣の軍すてにサ, カヽル、九月二十三日ノ條ニ收ム、, ○中略、義光ノ義家ヲ援クルコトニ, 武衡家衡, 金澤棚二, 移ル, 沼棚ヨリ, 苦戰ス, 郎景正ノ, 剛勇, 義家ノ軍, 鎌倉權五, 寛治元年十二月二十六日, 三〇三

割注

  • カヽル、九月二十三日ノ條ニ收ム、
  • ○中略、義光ノ義家ヲ援クルコトニ

頭注

  • 武衡家衡
  • 金澤棚二
  • 移ル
  • 沼棚ヨリ
  • 苦戰ス
  • 郎景正ノ
  • 剛勇
  • 義家ノ軍
  • 鎌倉權五

  • 寛治元年十二月二十六日

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  • 三〇三

注記 (29)

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