『大日本史料』 4編 10 承元2年3月~4年12月 p.156

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義兼共に足利を以て氏とするか故に、思ひ混せしもの歟、尚後の考をまつ、, 事用途ニ充テラレシコトハ、壽永二年十月二十二日ノ條ニ、備後國大, ○〓阿ノ申請ニ依リ、播磨國揖東郡内福井莊ヲ以テ、大塔長日所々佛, 郎忠綱志田三郎義廣に與して、鎌倉を度らむとす、事發覺して、義廣野木宮, 法華坊〓阿と號する歟、〓阿の手印を視るに、中指五寸餘あるを以て考る, 義相模守、義兼上總介云々、大系圖に、義康子義兼八條院判官代上野上總武, 八なり、其後再ひ世に聞ることなし、恐くは、忠綱亡命の後、高野山に遁栖て、, 藏守、文治元八十四六人受領内、建久六三十三於東大寺出家、法名義稱、正治, に敗す、足利忠綱先非を悔ひ、後勘を恥、山陰道を越て西海に遁る、時に年十, して、〓阿を義兼とせしならん、今云、東鑑を按に、治承五年閏二月足利又太, に、忠綱の齒一寸ありしなとに思ひ合さる、又世壽を考に附合する歟、忠綱, さること必せり、思ふに義兼下野の〓阿寺を建立するなとのことを附會, に世名を馳す、況乎建久六年に至て出家し、法名を義稱と云ふ、〓阿にあら, 元三八卒とあり、是等の書に據るに、義兼は元暦文治建久の際に在て、盛り, 田莊ヲ、高野山大塔領トナシ、長日不斷金剛胎藏兩界法ノ用途ニ充テ, 兼ニアラ, 〓阿ハ足, 〓阿ハ義, 利忠綱ナ, リトノ説, ズ, 承元二年七月十四日, 一五六

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  • 兼ニアラ
  • 〓阿ハ足
  • 〓阿ハ義
  • 利忠綱ナ
  • リトノ説

  • 承元二年七月十四日

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  • 一五六

注記 (23)

  • 509,623,66,2241義兼共に足利を以て氏とするか故に、思ひ混せしもの歟、尚後の考をまつ、
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