『大日本史料』 6編 4 建武4年正月~暦応元年閏7月 p.89

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りしと見えて、此申状の後に、小野莊と見えたり、此莊豐田莊に隣たる處な, られす、御領は肥後國には今も御領といふ所、合志山本八代なとの内にも, ふよし聞、何さま隈牟田の北大渡まての平原なるへし、三村入道は、例のし, 莊に攻入し處、〓庭引ちかへて、一色右馬入道か代官として、三村入道、其外, れは、新左衞門入道は、こゝの地頭にて、其比武家方して、右に云處地下凶賊, しを、惟澄森崎原にて馳合、手いたく防戰し程に、大將三村入道以下數輩討, 追したりし也、森崎原、今はさたかならす、今は犬塚山のあたりを森崎とい, なる者にてありつらんとおもふ也、惟澄は其勝に乘して、豐田の北隈牟田, 御領詫磨の者共、右馬入道か下知を受て、四月二日に、隈牟田莊に押寄たり, れて、殘兵は椙島大渡さして引たりしを、惟澄追討して、大渡の河向まて長, かならされとも、盆城の西郷守山莊の北に、小野郷あり、當時は莊號の地な, あれとも、今宇土の御領にはあらぬにか、御領か家のこと、系圖なとも世に, 傳はらされは、考索によしなし、竹崎新五郎は、阿蘇の家人に、後まても竹崎, 惟澄か手に討取たりし小野新左衞門入道は、いつくの住人なりしや、さた, れし故、今年は饗庭を守護代として、まつ肥後に差向しなるへし, 此時、, ○中, 略, 所在, 郎ノ考, 森崎原ノ, ニツキテ, 二氏ノ考, 衞門入道, 竹崎新五, ニ村御領, 小野新左, ノ考, 南朝延元二年北朝建武四年二月二十二日, 八九

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  • ○中

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  • 所在
  • 郎ノ考
  • 森崎原ノ
  • ニツキテ
  • 二氏ノ考
  • 衞門入道
  • 竹崎新五
  • ニ村御領
  • 小野新左
  • ノ考

  • 南朝延元二年北朝建武四年二月二十二日

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  • 八九

注記 (30)

  • 1525,632,74,2214りしと見えて、此申状の後に、小野莊と見えたり、此莊豐田莊に隣たる處な
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