『大日本史料』 6編 4 建武4年正月~暦応元年閏7月 p.90

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さまて遠き間のことにはあらて、申状のいふことく、四月二日の事也つら, か、蒙古合戰の勳賞に、左衞門尉になされ、同郡南郷の海東を賜り、後には入, 打勝て、其儘攻入隈牟田莊之處とあれは、三村なとか隈牟田に寄來りしは、, 安の蒙古合戰に、功名したりし竹崎五郎季長、當時は此竹崎の地頭なりし, れは、是は詫磨か一族の平田に住たりし人にてはなかりしにや、此三人の, かしおくなり、詫磨文書の詫間宗直か、建武三年以來、所々合戰軍忠状に、此, の竹崎を領せし家なるへし、また盆木西郷の北に竹崎と云地あり、文永弘, にいつれも實名に惟の字を用ひたれは、此竹崎は、阿蘇家の一族にて、南郷, を名のりたるか、いくらも見えたれは、南郷の内に、竹崎といふ所ありて、殊, は、季長入道か後なりつらんとおもふ也、平田は、詫磨の神藏莊の平田村あ, 森崎合戰を、四月十二日の事とせり、しかれは、此申状の四月二日とあるは、, 十の字を書落しゝにやとも思ひしかとも、惟澄三月廿二日、山崎原合戰に, 事、其實はさたかならねとも、おもひよりたるまゝを、こゝに書付て、おとろ, 道して法喜と名のりしよし、海東文書に見えたり、しかれは、此竹崎新五郎, んと覺ゆるなり、もししからんには、四月十二日の十の字は、恐らくは衍文, 南朝延元二年北朝建武四年二月二十二日, 平田氏ノ, ノ日附一, 詫磨文書, 考, 就キテノ, 考, 南朝延元二年北朝建武四年二月二十二日, 九〇

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  • 平田氏ノ
  • ノ日附一
  • 詫磨文書
  • 就キテノ

  • 南朝延元二年北朝建武四年二月二十二日

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  • 九〇

注記 (24)

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