『大日本史料』 6編 12 貞和4年10月~貞和5年10月 p.134

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たり、これらの徴証を以て、十樂院の所在の明白なるを知るべし、然るに, 水ハ門主ノ界内ニ有リ、然レ〓元トヲ正セハ、門主住居ノ界内モ、浩玄院, ニツキ、太子堂ヲ下寺町ヘ引移シ、境内ヲ二ツトナシ、一ツハ門主ノ舘、一, といへるやうにもなりしなり、慈嚴僧正記に、御葬禮事以上聖人沙汰也, 黒谷にて、十樂院本坊のことをいふなり、兩京古圖の中山の南なる黒谷, ツハ浩玄院トナス云々といへり、此浩玄院も他に引移し、舊知恩院宮の, 猶殘りて、その地形は即ち十樂院の西下に當れは、此記にもよく符合し, 山城名勝志に、園太暦目録を引て、十樂院は黒谷方と記したるは、叡山の, 仍先幸太子堂、是内内御幸之儀也、雲客少々供奉云々、從彼堂一向爲聖人, 修之、仍於萩原殿者無御中陰之儀とある太子堂は、速成就院といひで、十, 境内モ、共ニ太子堂ノ境内ナリシヲ、寛永度知恩院今ノ如ク廣大ニ爲ス, 域内に入りたれと、たゝ荒蕪地となりてありしに、太子杉太子水なとは、, 樂院の西下にありて、高畠敬の山陵説に、太子堂ハ浩玄院内ニ在リ、太子, 沙汰、於十樂院上山、構山作所奉葬之云々、御佛事等、悉依御遺命、於彼堂被, に、十樂院を記し、山陵志にも黒谷是故十樂院地也といへるは、共に本坊, 南朝正平三年北朝貞和四年十一月十三日, 太子堂, 一三四

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注記 (18)

  • 510,741,59,2133たり、これらの徴証を以て、十樂院の所在の明白なるを知るべし、然るに
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