『大日本史料』 7編 22 応永22年正月~同年8月 p.166

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より城兵の内へ内々人を遣しかたらわせけるに、長井次郎左衞門・松田小太郎二人俊康, 落して、物はしめにこそすへけれ、國中を心易くして後、近江路よりも、伊賀路よりも、, に内應し、我かためたる木戸より敵を引入けれは、雅俊朝臣ふせくへき樣なく、木造を, 中將俊康兩大將にて、世保大膳大夫康政・仁木右馬頭滿長・細川讃岐守・佐々木六角判, 騎を指向、攻めさせける、城兵一戰にも及はす降參しけれは、やかて京都へ攻上らんと、, より雨の降ことく矢種をおします散々に射させ、ひるむ所を木戸をひらき打て出、かけ, 兵を出すへしと、木造少將雅俊朝臣大將軍にて、船江・波瀬・岩田・大淀の軍勢八千餘, 立る間、寄手手負死人數百人に及ひてけれは、暫く遠攻にして日を送るうち、俊康朝臣, 先軍勢到著を付られけるに、二萬餘騎とそしるされける、先陳は阿曾民部少輔・逸見加, つ木造の城を圍んて戰ひけるに、此城には雅俊朝臣二千餘騎にてこもられけるか、矢倉, の大軍を見て、中々掛合の軍はあしかりなんと、各城にこもり防きたゝかふ、京都勢ま, 官已下近江・美濃・尾張・丹波并畿内の勢、都合五萬餘騎勢州へ發向しけれは、國司敵, 賀守三千餘騎なり、かゝる所に、京都將軍義持の下知として、土岐左京大夫持盆・木造, 捨て、坂の内の城へそこもられける、俊康は、おのれか居城を雅俊にとられし會稽の恥, 應永二十二年四月四日, 一六六

  • 應永二十二年四月四日

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  • 一六六

注記 (16)

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