『大日本史料』 7編 22 応永22年正月~同年8月 p.167

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りたれは、たやすく落へきとは見へさりし、矢倉より大木大石を投かけ、矢つき早に精, あくみ、退んと云もの多かりける、しかるに仁木滿長、はかつて水の手をとり切、兵を, を見て、扨は城中の水澤山に有けり、外よりは水をとらさりけりと、彼水の手の守りを, とを案し出し、城内の小高き所にて白米をもつて馬を洗ふて見せけれは、よせ手遙に是, 州の陣をはらひかへりけれは、國司運開き給ひ、俊康を押こみ、雅俊朝臣の男持康朝臣, 寄かけたり、抑此城四方とも難所にて、要害の地なるうへ、屈竟の兵六千餘騎にてこも, を木造の名跡にそなし玉ひける、, 子御くらひに即奉るへきよしの誓約をなし、和睦を乞れけれは、國司許容して、京勢勢, 兵とも手先を廻し、散々に射出しけるか、毎日寄手手負死人數をしらす、後には寄手攻, して守らせけれは、是に城中以の外迷惑し、すてに危ふく見へけるに、滿泰卿はかりこ, れは、かくてはかなわしと、寄手の人々評定あつて、京都へ注進し、ふたゝひ南帝の皇, 船江・岩内・田丸の城々にこもり居ける人、寄手の陳へ夜打をかけ、兵粮の道を指塞け, 解けるにそ、城中危難をまぬかれてけり、去ほとに今徳・榊原・八田・天華寺・曾原・, をそすゝかれける、同四月廿三日、京勢一手に成て、國司のこもらせ給ふ阿井加の城へ, ○下, 略, 應永二十二年四月四日, 一六七

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  • ○下

  • 應永二十二年四月四日

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  • 一六七

注記 (18)

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