Loading…
要素
割注頭注ノンブル
OCR テキスト
人々ヲ差ムケラルトアリ、此時持氏佐介谷ニ居ラレタリ、, 壽院へ御出有之、旗を揚らるゝと大草紙等に見へたり、, 福呂坂に敵を支へ踏留て、主從百餘人自殺すといふ、開山義堂、日工集に、應安七年, 也、此禪尼は北條相模守平守時の息女なり、守時は元弘三年五月義貞亂入のとき、巨, 九月廿九日清江夫人逝去す、夫人の遺命によつて、西御門の別殿を名附て保壽院と號, すといふ、或は新御堂とも稱せしにや、滿隆茲に住給ひしことある、依て滿隆の事を, ノ首ヲケシヤウシテ實檢シタル地ナリ、故ニ名ク、或云、古へ遊女ノ住居セシ故ニ名, 新御堂殿ともいふ、應永廿三年十月、上杉禪秀が勸に依て持氏朝臣御伯父新御堂殿, クトモ云ト、, 并持氏朝臣の御弟持仲等を語らひて、十月二日の夜戌刻御所を忍ひ出給ひ、西御門保, 〔新編鎌倉志〕卷之四, 坂ハ、扇谷ヨリ西ノ方へ行坂ナリ、往還ノ道ナリ、相傳、昔シ平家ノ大將, 西御門村報恩寺跡の西南にあり、源基氏朝臣の母堂なる保壽院清江寛公禪尼の菩提所, 假粧, 又鎌倉大草子ニ、禪秀亂ノ時、持氏方ヨリ氣生坂ヘハ三浦・相模ノ, 假粧坂, 又形勢、, 或作氣生, ○中, 略, 假粧坂, 應永二十三年十月二日, 一一七
割注
- 又形勢、
- 或作氣生
- ○中
- 略
頭注
- 假粧坂
柱
- 應永二十三年十月二日
ノンブル
- 一一七
注記 (23)
- 233,681,55,1451人々ヲ差ムケラルトアリ、此時持氏佐介谷ニ居ラレタリ、
- 1022,683,56,1395壽院へ御出有之、旗を揚らるゝと大草紙等に見へたり、
- 1632,680,60,2183福呂坂に敵を支へ踏留て、主從百餘人自殺すといふ、開山義堂、日工集に、應安七年
- 1755,684,59,2180也、此禪尼は北條相模守平守時の息女なり、守時は元弘三年五月義貞亂入のとき、巨
- 1513,681,58,2186九月廿九日清江夫人逝去す、夫人の遺命によつて、西御門の別殿を名附て保壽院と號
- 1390,683,58,2178すといふ、或は新御堂とも稱せしにや、滿隆茲に住給ひしことある、依て滿隆の事を
- 484,682,60,2181ノ首ヲケシヤウシテ實檢シタル地ナリ、故ニ名ク、或云、古へ遊女ノ住居セシ故ニ名
- 1266,679,62,2145新御堂殿ともいふ、應永廿三年十月、上杉禪秀が勸に依て持氏朝臣御伯父新御堂殿
- 365,685,56,292クトモ云ト、
- 1144,681,58,2177并持氏朝臣の御弟持仲等を語らひて、十月二日の夜戌刻御所を忍ひ出給ひ、西御門保
- 865,666,81,601〔新編鎌倉志〕卷之四
- 608,974,61,1892坂ハ、扇谷ヨリ西ノ方へ行坂ナリ、往還ノ道ナリ、相傳、昔シ平家ノ大將
- 1878,685,58,2182西御門村報恩寺跡の西南にあり、源基氏朝臣の母堂なる保壽院清江寛公禪尼の菩提所
- 610,680,56,108假粧
- 362,1102,59,1756又鎌倉大草子ニ、禪秀亂ノ時、持氏方ヨリ氣生坂ヘハ三浦・相模ノ
- 734,680,54,166假粧坂
- 594,795,45,142又形勢、
- 638,793,45,173或作氣生
- 391,1027,44,80○中
- 349,1025,39,39略
- 743,331,43,127假粧坂
- 130,722,45,428應永二十三年十月二日
- 127,2551,46,111一一七







