『大日本史料』 7編 25 応永23年8月~同年雑載 p.130

Loading…

要素

ノンブル

OCR テキスト

うち死す、軍兵ともは右往右往に落ちりたり、餘煙四方に滿て佐介の亭に燃かゝる、, りに梶原但馬守・海上筑後守・同信濃守・椎津出羽守・園田四郎・飯田小次郎に三百, よ騎をさしそへて、坂口に向らる、いきをひかゝりて勝に乘たる岩松か軍兵共、是を, に落給ふ、土肥・土屋か兵共出向ふて前をさゝへ、後を切て時を作り、矢を射かけた, 左馬頭殿は、後の小門より出て極樂寺に退そき、肩瀬・腰越の汀を經て、相州小田原, は、味方の諸軍煙にむせひ火に迷ふ、江戸近江守・畠山伊豆守以下の諸大將三十余人, 田・海上は無量寺口に引しりそき、上杉藏人憲長か陣とひとつになりて防き戰かふ、, かくる、持氏は上杉彈正氏定手負たりと聞給ひ、荒手の加勢をつかはせとて、御馬廻, り、一色兵部太輔・同左馬助・今川三河守討死す、同七日之暮方に左馬頭持氏は箱根, にくまれて打死す、其外の兵共みな疵を蒙ふり、終に氣生坂をは責破られ、園田・飯, 物ともせす、坂の上を追くたし懸上り、半時はかり戰かふあひたに、梶原・椎津は敵, 憲長か家來大庭式部丞を初て五十六騎打死す、岩松・澁川か兵國清寺に火をかけゝれ, 介聞つけて、走湯山の大衆をかたらひ、押よせて打奉らんとす、木戸將監を初めて一, に落付て、別當刑部少輔案内者として、伊豆の名古屋にいたり草堂に入給ふを、狩野, 應永二十三年十月二日, 一三〇

  • 應永二十三年十月二日

ノンブル

  • 一三〇

注記 (16)

  • 834,685,61,2148うち死す、軍兵ともは右往右往に落ちりたり、餘煙四方に滿て佐介の亭に燃かゝる、
  • 1730,689,61,2180りに梶原但馬守・海上筑後守・同信濃守・椎津出羽守・園田四郎・飯田小次郎に三百
  • 1600,691,62,2182よ騎をさしそへて、坂口に向らる、いきをひかゝりて勝に乘たる岩松か軍兵共、是を
  • 590,688,62,2179に落給ふ、土肥・土屋か兵共出向ふて前をさゝへ、後を切て時を作り、矢を射かけた
  • 712,680,62,2189左馬頭殿は、後の小門より出て極樂寺に退そき、肩瀬・腰越の汀を經て、相州小田原
  • 958,687,60,2183は、味方の諸軍煙にむせひ火に迷ふ、江戸近江守・畠山伊豆守以下の諸大將三十余人
  • 1217,686,60,2147田・海上は無量寺口に引しりそき、上杉藏人憲長か陣とひとつになりて防き戰かふ、
  • 1859,696,61,2173かくる、持氏は上杉彈正氏定手負たりと聞給ひ、荒手の加勢をつかはせとて、御馬廻
  • 467,686,62,2183り、一色兵部太輔・同左馬助・今川三河守討死す、同七日之暮方に左馬頭持氏は箱根
  • 1342,690,60,2181にくまれて打死す、其外の兵共みな疵を蒙ふり、終に氣生坂をは責破られ、園田・飯
  • 1471,681,61,2188物ともせす、坂の上を追くたし懸上り、半時はかり戰かふあひたに、梶原・椎津は敵
  • 1089,683,60,2185憲長か家來大庭式部丞を初て五十六騎打死す、岩松・澁川か兵國清寺に火をかけゝれ
  • 217,680,59,2181介聞つけて、走湯山の大衆をかたらひ、押よせて打奉らんとす、木戸將監を初めて一
  • 341,688,60,2183に落付て、別當刑部少輔案内者として、伊豆の名古屋にいたり草堂に入給ふを、狩野
  • 1975,728,44,429應永二十三年十月二日
  • 1970,2559,44,115一三〇

類似アイテム