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六郎高貞なり、, 三年八月、相國寺供養の日隨會を勤む、唐紅の鎧に紅の直垂をき、綱切の刀をはき、, 備中守源滿高は、源三秀義より六代、左衞門尉氏頼か子なり、, 公の命にて、高經をは六角の亨を追出さしむ、, 白鞍置て鵠毛の馬に乘、〓副は楢崎太郎左衞門尉高行、張替役は蒲生六郎左衞門尉貞, 應永元年九月、日吉社參の供奉し、, 其後元服し、備中守に任す、明徳, 族京極四郎左衞門高經後見して在しか、非法の扱ともありとて、永和三年八月、義滿, く程もなく、兄の義信も貞治四年身まかりしかは、滿高幼にして家繼、, 幼名を龜壽丸といふ、應安三年父氏頼入道卒し、い, 行・儀俄左京亮氏秀、敷皮役は多賀五郎左衞門尉康貞・目賀田次郎左衞門尉慈遠・伊庭, 同八年また同社の供奉し、, 永二十三年十月七日, 廿三年十一月十一日卒す、年三十八、法名, 供養記、二十五日條參看, し、京極に住せしをもて京極と稱せしなり、, 住せしゆへ六角と稱し、氏信は北方五郡を領, 十一日條參看、, 三代記、十五, 三代, ○應永元年九月, 歳以前といふ, 相國寺○明徳三年八月, 系圖を案に、宇多天皇子一品, 式部卿敦實親王、承平六年源, 方に降り、出仕をとゝめられ、子氏頼に家繼しむ、氏頼かねて遁世の志ありて、世務をいとふかゆへに、氏信の子, 高氏は、專ら近江國務を沙汰し、尊氏・義詮二代に歴事し、威權當時に於て比するものなし、これより嫡家の六角, は衰微し、支庶の京極はかへりて盛赫に成行しなり、又近江十八郡の内にて、泰綱は南方八郡を領し、京の六角に, 庫介經方、其子式部大輔爲俊、その子源三秀義はしめて佐々木を稱し、六條判官爲義に養はれ、保元平治の亂に左, 康富○應永八年五月, 姓を給り、其子一條左府雅信公の三男兵庫頭成頼、近江國蒲生郡佐々木の庄に住し、成頼か子兵部大輔章經、其子兵, 是を六角の祖とす、四男近江守氏信、これを京極の祖とす、泰綱か子近江守時信、元弘の亂に六波羅に屬し、後宮, 記、十三日條參看、, 守信綱、承久三年六月宇治川の先陣し、叔父高綱か高名をつき、北條泰時か爲に賞せらる、信綱か次男壹岐守泰綱, 馬頭義朝に屬し、軍功を顯はし、後又鎌倉右大將家に從ひ、數多の戰功あり、秀義嫡男左衞門尉定綱、その子近江, 記、, 記、, 康富, 相國寺, ヲ繼ギ京極, 幼ニシテ家, 幼名龜壽丸, 高經ニ後見, セラル, 一七〇
割注
- 供養記、二十五日條參看
- し、京極に住せしをもて京極と稱せしなり、
- 住せしゆへ六角と稱し、氏信は北方五郡を領
- 十一日條參看、
- 三代記、十五
- 三代
- ○應永元年九月
- 歳以前といふ
- 相國寺○明徳三年八月
- 系圖を案に、宇多天皇子一品
- 式部卿敦實親王、承平六年源
- 方に降り、出仕をとゝめられ、子氏頼に家繼しむ、氏頼かねて遁世の志ありて、世務をいとふかゆへに、氏信の子
- 高氏は、專ら近江國務を沙汰し、尊氏・義詮二代に歴事し、威權當時に於て比するものなし、これより嫡家の六角
- は衰微し、支庶の京極はかへりて盛赫に成行しなり、又近江十八郡の内にて、泰綱は南方八郡を領し、京の六角に
- 庫介經方、其子式部大輔爲俊、その子源三秀義はしめて佐々木を稱し、六條判官爲義に養はれ、保元平治の亂に左
- 康富○應永八年五月
- 姓を給り、其子一條左府雅信公の三男兵庫頭成頼、近江國蒲生郡佐々木の庄に住し、成頼か子兵部大輔章經、其子兵
- 是を六角の祖とす、四男近江守氏信、これを京極の祖とす、泰綱か子近江守時信、元弘の亂に六波羅に屬し、後宮
- 記、十三日條參看、
- 守信綱、承久三年六月宇治川の先陣し、叔父高綱か高名をつき、北條泰時か爲に賞せらる、信綱か次男壹岐守泰綱
- 馬頭義朝に屬し、軍功を顯はし、後又鎌倉右大將家に從ひ、數多の戰功あり、秀義嫡男左衞門尉定綱、その子近江
- 記、
- 康富
- 相國寺
頭注
- ヲ繼ギ京極
- 幼ニシテ家
- 幼名龜壽丸
- 高經ニ後見
- セラル
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- 一七〇
注記 (45)
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