『大日本史料』 7編 26 応永23年雑載~同24年正月 p.501

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戸・豐島の者ともこゝに出合て、しはらく相戰かふといへとも、わつかに五百よ騎、入, 替るあら手もなく、終日戰かひ暮しけれは、味方そくはくうたれて、江戸・豐島の輩い, 新玉の年立歸り、昨日にかはらぬ空のけしきも珍らかなる春をむかへ、白雪はいまたと, として、都合一千七百よ騎鎌倉を立て、同しき五日、世谷原に著て陣を取、南一揆・江, 持仲は背く者おほしと聞て、更に安堵の思ひなし、同廿四年正月朔日、禪秀か一族を先, 〔鎌倉管領九代記〕四上, けされ共、霞は山にたなひき、千歳を祝ふ元三の朝、家々屠蘇を斟といへとも、滿隆, 持仲・滿隆・禪秀一族自殺, 持仲等打勝、南一揆・江戸・豐島打負、同九日、又合戰、諸人悉背持仲・滿隆、, 〓年春正月一日、滿隆・持仲・禪秀立鎌倉至武州、同五日、於世谷原合戰、, 坊滿高・持仲・禪秀・憲方・弟憲春・同快尊・長尾兵庫助等自害、同十七日、持氏入鎌, 倉淨智寺、, 〔南方紀傳〕捕, 禪秀等敗軍歸鎌倉、亦持氏催今川勢并大森等軍兵攻鎌倉、同十日、於雪下御, 應永二十四, 夫侈多、諸人, 皆背之云々, 禪秀聟岩, 松治部太, 臣, 應永二十四年正月十日, 五〇一

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  • 夫侈多、諸人
  • 皆背之云々
  • 禪秀聟岩
  • 松治部太

  • 應永二十四年正月十日

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  • 五〇一

注記 (22)

  • 409,722,55,2120戸・豐島の者ともこゝに出合て、しはらく相戰かふといへとも、わつかに五百よ騎、入
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