『大日本史料』 10編 11 元亀3年12月~同年是歳 p.268

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有べきや、其に此徳河家は、信長の片腕とも頼む味方なるを、捨て殺し候はんや、自多勢, 疲れ、遠く他國に働くゆへ、兵粮乏しく成り、又信長今度の援兵戰ひ負けたる事を憤らで, 掃部助等、騎馬にてかけ立んと進む所、鐵炮そろへて打立、玉つくを助て、矢尻をそろへ, るは、面々の申さるゝ所一理ありとはいゝながら、濱松の城責らるゝ事然るへからず、大, 捨て、誰か後詰セざるべき、彼荒手と飢疲れたる味方をもつて戰ふとも、利有るまじ、又, いゝけれは、小山田備中守昌則・馬場美濃守氏勝・山懸三郎兵衞皿景・内藤修理亮昌豐, 北國の上杉謙信と徳河家とは、去年より和睦のさたあり、左すれば謙信上野・信濃の間へ, て射たりければ、軍兵多く手負ひ討れて、其人數引かへすゆへ、濱松勢も城中へ引入りけ, 將といゝ、士卒といゝ、籠城廿日に餘るべし、尤味方大勢とは申セども、人馬共に大きに, るが、邊なる敵の首五ツ取て歸りける、其後信玄は、一族郎等呼ひ集めて軍評定しける所, に、四郎勝頼・武田左馬助信豐・同刑部少輔信綱入道逍遙軒等一同に濱松を責め取らんと, 小幡山城守入道日意・眞田源太左衞門信綱等も申けるは、敵は氣を失ひて小勢なり、信長, を引卒し、定めて後詰仕らん、又遠州の城〳〵を守らセ置たる徳河の家人等其城〳〵を打, より加勢も來るまじ、忽ち落んと、是に同意しける所、高坂彈正忠昌宣ひとり進出て申け, 出陣疑ひなし、北條の氏政も武田家と不和なり、徳河家とは和平たり、信長・謙信・氏政, 元龜三年十二月二十二日, 二六八

  • 元龜三年十二月二十二日

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  • 二六八

注記 (17)

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