『大日本史料』 10編 16 天正元年4月~同年7月 p.331

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しきかと云、, 信長在京は有之間敷なり、既に藤孝君に御領知の證書、七月十曰也、編年集成ニ、, 六日二條城降參、七日槇島落城と有、左もあらんか、いつれに同曰か、兩三日の内, 君たらすといふ共、いかてか矢を放ツへきとて、槇島へは向ひ給はす、此時迄ハ長岡, かひニ成、三淵等先陣にて、眞木島ニ向と有、明智軍記こは、荒木攝津守・筒井順, 槇島は七月十六日落城と有、いふかし、六曰より十六曰まて、敵を前に置、無盆, と申奉らす、細川也、信長公より桂川西地之事無相違之由御證書有之已後、御領分之, 火を高櫓に放ツなと云虚妄の説々有、迷ふへからす、又一書、二條は七月六日落去、, 考ニ、此評的中也、或書こ、眞木島供奉之内ニ、藤孝君も見へ、七月八日二條あつ, に兩所共ニ落著之事實成へし、, 地の名により、長岡とは申せしなり、又忠興公は、此時十一歳也、軍ニは御出被成ま, 慶・長岡兵部大輔・前波九郎兵衞・富田孫六なとは、淀の城の押へとして、其近邊, こ陣を張と云々、武林傳ニ、信長、義昭の營を圍ひ、兵部藤孝・同名與一郎忠興、, 五ケ庄邊より渡す人々ニは、長岡兵部大輔・子息與一郎と云々、愚按に、藤孝君は君, 天正元年七月十八日, ハルトノ説, 長ノ軍ニ加, ハ非ナリ, 藤孝父子信, 天正元年七月十八日, 三三一

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  • ハルトノ説
  • 長ノ軍ニ加
  • ハ非ナリ
  • 藤孝父子信

  • 天正元年七月十八日

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  • 三三一

注記 (21)

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