『大日本史料』 11編 9 天正12年9月 p.247

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歴々方へも押立、關所と申事こ相成旨、明白に御答申上罷歸處、其年の秋、再ひ富山へ被, 諸國武者修行に出、此地に來りけるに、關門の爲にかくまひ置、境村に客分と成、寓居し, ける、然るに慶長年中、利長卿富山御在城中、境村の長百姓を召さると付、長谷川宗左衞, 承り、境關塞は、往古より在來候處、近く天正十三年に御改之後、彌關所と相唱、往來の, 門は武勇といひ、才發者なるか故に、名代に遣しける、宗左衞門富山へ伺公せしに、西尾, 門は、即ち堺關守の元祖也、藤卷三右衞門か子孫は、今境村に御坊三右衞門と字する者、, 兵の中なるへし、さて右堺上口の木戸とあるは、今いふ境村の事にて、上口の木戸とは、, 隼人を以御尋こは、境の地に、從來關門を建置義は如何、委く可申上との事也、宗左衞門, 所謂國境の柵門にて、後には境の關所と稱する關門ならんか、右之せうこ長谷川宗左衞, ならすといへとも、此地に持傳へる境記といへる一册あり、此記を見るに、昔亂世の頃、, 門、藤卷三右衞門と申者、于今さかいに有之能々存申と、彼書付に載たる長谷川宗左衞, 即その後孫也といへり、抑境村の關門は、此地越中、越後兩國の境堺なるにより、いと上, 此地に關門を建置、國堺の縮とす、其比越後國府竹内庄の浪人長谷川宗左衞門と云者、, 代より、國堺の關塞ありたる事、古今の軍防令なとにて知られける、さて中古の事は詳, 召、先達而の答方委曲被聞召候、依て宗左衞門義、則關守こ被命、家録賜り、其子宗兵衞, 天正十二年九月十八日, 境ノ關所, 境記, 二四七

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注記 (19)

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