『大日本史料』 11編 17 天正13年7月 p.210

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十兵衞殿壹尺八寸のわきざしをひんぬいて、ふと立ところをきつておとし給ひ、いかに, わの見事なるが有けるに、すゞめの三ツ四ツとびきたつてかなたこなたへつたふほどに、, かれたる事にこそ、なか〳〵うけたまはりおよひたるよりは秀拔の御太刀すぢにこそ候, なかりけり、あるとき北國かたより兵法者のきたりて、このならざき十兵衞にたいめん, や御へんもすゞめ一ツきり給へとの給へは、兵法者あきれはてゝ、さても〳〵御太刀の, へとて、仕相におよはすとをりける、さるほとに秀吉公四國そむき奉るによつて退治あ, りけるに、藝州を一圓にたのませ給ふによつて、輝元公三年かゝらせ給ふ、殿下の軍代, しかたより兵法者許状をとつて、此ならさきへ來る、しかれとも一人にても利をうる物, し、要害をかたくして相まちける、藝州よりは小早川筑前守隆景・吉川藏人將監廣家, 福原越後守廣利を大將とし、三萬四萬の人數をそつしてせめ給ふ、討死せむと思ゐきつ, ひにし給ふか、きたゑんに氈を敷て兩人はなし給ふところに、手水鉢のもとにさざんく, し、承はり及ひてまいりたるよしを申とき、信定馳走し給ひ、さて兵法のさうだんたが, には三善治兵衞殿發向し給ふ、秀次公の御事とそ、与州には曾根・大津・河野城を普請, たるてきなれは、なか〳〵つよく、命をすてゝたゝかふにより、毛利家の人數も若干に, 退治ス, 秀吉四國ヲ, 秀次軍代ト, ナル, 天正十三年七月十七日, 二一〇

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  • 天正十三年七月十七日

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  • 二一〇

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