『大日本史料』 12編 1 慶長八年二月~同九年二月 p.175

Loading…

要素

割注頭注ノンブル

OCR テキスト

りて、これをゆるさる、八年三月, 千石を知行す、このとき、一族等大阪にありといへとも、秀家か忠節によ, 十七、法名了浚、, の仰により、從五位下に敍し、このとし父か遺跡をたまふ、, ほうい四人申入, らるゝ、かたしけなきよし申さるゝ、御かわのかみ, 内國錦部郡のうちにをいて、釆地千石をくはへられ、舊領を合せ、都て二, 戰死し、あるひはルをかうふるものもまた多し、東照宮其功を賞して、河, 廿三日はるゝ、そとふる、けふも御とりおきありしよ大夫一人あり、, 二十五日、, 廿四日、はるゝ、けふも御とりおきあり、日ろはし大納言に、てんそう仰つけ, 波國に生る、のち秀家か養子となり、豐臣秀頼につかふ、慶長八年、東照宮, 三尹、實は小出播磨守秀政か四男、母は豐臣太閤秀吉の姑、天正十七年、丹, 三月廿二日、雨ふる、さんたいの御とりおきあり、, 餘首數級を得たり、殘黨こと〳〵く兵船に乘てしりにく、秀家か兵或は, 〔御湯殿上日記〕, 二十三日、大阪にをいて死す、年三, ○小出氏ノ事蹟ハ、慶長九年三月廿二日、秀政卒ノ條ニ見エタリ、, 將軍家康、拜賀ノ禮ヲ行ヒ、〓セテ歳首ヲ賀シ奉ル、, 今の呈, 譜八月, 秀康カ, ○結城, ○下, 六十, 略, 壬, 午, 小出三尹, 慶長八年三月二十五日, 一七五

割注

  • 今の呈
  • 譜八月
  • 秀康カ
  • ○結城
  • ○下
  • 六十

頭注

  • 小出三尹

  • 慶長八年三月二十五日

ノンブル

  • 一七五

注記 (31)

  • 1476,710,56,912りて、これをゆるさる、八年三月
  • 1592,712,57,2128千石を知行す、このとき、一族等大阪にありといへとも、秀家か忠節によ
  • 1363,709,55,423十七、法名了浚、
  • 1011,712,59,1711の仰により、從五位下に敍し、このとし父か遺跡をたまふ、
  • 305,2361,48,476ほうい四人申入
  • 300,641,58,1490らるゝ、かたしけなきよし申さるゝ、御かわのかみ
  • 1706,705,60,2136内國錦部郡のうちにをいて、釆地千石をくはへられ、舊領を合せ、都て二
  • 1823,711,59,2135戰死し、あるひはルをかうふるものもまた多し、東照宮其功を賞して、河
  • 531,639,59,2000廿三日はるゝ、そとふる、けふも御とりおきありしよ大夫一人あり、
  • 769,559,67,292二十五日、
  • 416,634,60,2208廿四日、はるゝ、けふも御とりおきあり、日ろはし大納言に、てんそう仰つけ
  • 1126,705,62,2142波國に生る、のち秀家か養子となり、豐臣秀頼につかふ、慶長八年、東照宮
  • 1243,637,61,2215三尹、實は小出播磨守秀政か四男、母は豐臣太閤秀吉の姑、天正十七年、丹
  • 646,1355,58,1433三月廿二日、雨ふる、さんたいの御とりおきあり、
  • 1940,712,57,2133餘首數級を得たり、殘黨こと〳〵く兵船に乘てしりにく、秀家か兵或は
  • 628,596,103,490〔御湯殿上日記〕
  • 1474,1860,57,981二十三日、大阪にをいて死す、年三
  • 894,777,60,1936○小出氏ノ事蹟ハ、慶長九年三月廿二日、秀政卒ノ條ニ見エタリ、
  • 761,917,78,1637將軍家康、拜賀ノ禮ヲ行ヒ、〓セテ歳首ヲ賀シ奉ル、
  • 1505,1649,42,181今の呈
  • 1462,1645,39,184譜八月
  • 286,2147,39,170秀康カ
  • 329,2153,42,178○結城
  • 1039,2440,40,110○下
  • 678,1149,42,104六十
  • 996,2437,41,38
  • 806,877,40,42
  • 765,880,39,43
  • 1250,274,42,168小出三尹
  • 199,705,45,424慶長八年三月二十五日
  • 196,2441,44,108一七五

類似アイテム