『大日本史料』 12編 4 慶長十一年四月~同十二年七月 p.707

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開山は僧滿譽玄道なり、, 中こゝに移し、御寺の列となせり、, 法號を以て寺號に改めしを、慶長十六年、, 立し給ひ、正覺寺といひしを、慶長六年忠吉君清須へ遷り給ひし後、同八年, 此寺をもうつし、同十二年三月五日、江戸にて君かくれさせ給ひし後、彼御, 十七年、忠吉君其御母寶臺院女君の御爲に、武藏國埼玉郡忍莊持田村に建, 明嶺を迎へて、開山とし、清善寺と號け給へり、忠吉君御存生の時、法號を明, 嶺に請給ひて、大光院殿と申しゝか、慶長十二年江戸にてうせ給ひし時、御, 遺言によりて、清須の此寺に葬り奉らむとせしを、増上寺の衆徒異議を申, により、増上寺に葬り、靈牌を此寺に建て、日置山大光院と改めしを、慶長年, 性高院門前町の東側にありて、大雄山と號し、京都智恩院の末寺也、天正, 今の處に移せり、中興の, 年代記〕慶長十二年丁未三月五日、尾州太守籌山宗勝公遠行、追而, 切腹之士三人, 下野樣御參學之本則、趙州〓劍刃上一句、万法不但趙州□死底、徳山入門棒、, ), の跡に一宇を建立し、, (裏書〕, 寺記には, 尚爲開山、其後暫中絶矣とあるは、雲門寺の事なり, 十五年, 天正十九年辛卯、豐臣秀次、爲秀長菩提創建、以雪齋和, 武藏國, 龍淵寺, 門歸依, 寺ノ異議, 忠吉ノ禪, 葬儀ニツ, イテ増上, 性高院, 慶長十二年三月五日, 七〇七

割注

  • 寺記には
  • 尚爲開山、其後暫中絶矣とあるは、雲門寺の事なり
  • 十五年
  • 天正十九年辛卯、豐臣秀次、爲秀長菩提創建、以雪齋和
  • 武藏國
  • 龍淵寺

頭注

  • 門歸依
  • 寺ノ異議
  • 忠吉ノ禪
  • 葬儀ニツ
  • イテ増上
  • 性高院

  • 慶長十二年三月五日

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  • 七〇七

注記 (32)

  • 630,641,53,715開山は僧滿譽玄道なり、
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