『大日本史料』 12編 6 慶長十四年正月~同十五年二月 p.118

Loading…

要素

割注頭注ノンブル

OCR テキスト

らむとせしとき、惟正か家臣恩地小太郎某かためにうたる、年十九、其男を, 孫伯耆守秀定、常徳院義尚につかふ、その男美作守秀度, 讚岐守, 年十九歳にして討死、その子秀祐か年齡、慶長十四年死年五十九より推せ, とき、みつから敵三人をうちとり、なを和田伊賀守惟正を組伏せ、其首をと, 藤原氏支流、中坊、今の呈譜に武智麻呂の男右大, 秀祐とす、このときにいたり、ゆへありて家號を中坊にあらたむといふ、寛, 永系圖に參考するに、家系、秀友秀定父子の名を相替へ、且盛祐と覺祐とは, 讚岐守の呼名合するときは、同人たるかことし、また覺祐か子秀國、永祿三, 岐守に敍任す、其男左近秀國、永祿三年正月五日、京本國寺にをいて合戰の, 覺祐法眼たりしとき、天文十六年南都の奉行を兼、從五位下讚, につのへ、大永七年春日造營の奉行を勤め、從五位下美作守に敍任す、其男, か三代治部大輔秀清、大和國吉野郡奈良に生るゝをもつて、, 臣豐成, はしめて奈良を稱し、累代かの地に住して十五村を領す、秀清二十三代の, シテ、諸人悉ク懷ケリ、, は、天文二十年の生れにして、秀國十二歳のときの子なり、これうたかふへ, 萬松院義晴, 〔寛政重修諸家譜〕, 初左近, 秀友, 初左, 近, 千四, 尊卑分, 廉、豐茂, 十一, 十千, 中坊ノ祖, 先, 慶長十四年二月二十九日, 一一八

割注

  • 初左近
  • 秀友
  • 初左
  • 千四
  • 尊卑分
  • 廉、豐茂
  • 十一
  • 十千

頭注

  • 中坊ノ祖

  • 慶長十四年二月二十九日

ノンブル

  • 一一八

注記 (32)

  • 697,694,69,2223らむとせしとき、惟正か家臣恩地小太郎某かためにうたる、年十九、其男を
  • 1284,699,72,1654孫伯耆守秀定、常徳院義尚につかふ、その男美作守秀度
  • 1060,699,58,203讚岐守
  • 227,692,73,2209年十九歳にして討死、その子秀祐か年齡、慶長十四年死年五十九より推せ
  • 811,702,70,2215とき、みつから敵三人をうちとり、なを和田伊賀守惟正を組伏せ、其首をと
  • 1631,1496,67,1431藤原氏支流、中坊、今の呈譜に武智麻呂の男右大
  • 578,688,72,2224秀祐とす、このときにいたり、ゆへありて家號を中坊にあらたむといふ、寛
  • 462,690,72,2219永系圖に參考するに、家系、秀友秀定父子の名を相替へ、且盛祐と覺祐とは
  • 343,692,74,2213讚岐守の呼名合するときは、同人たるかことし、また覺祐か子秀國、永祿三
  • 931,694,70,2218岐守に敍任す、其男左近秀國、永祿三年正月五日、京本國寺にをいて合戰の
  • 1047,1055,71,1866覺祐法眼たりしとき、天文十六年南都の奉行を兼、從五位下讚
  • 1165,706,70,2216につのへ、大永七年春日造營の奉行を勤め、從五位下美作守に敍任す、其男
  • 1517,1139,68,1798か三代治部大輔秀清、大和國吉野郡奈良に生るゝをもつて、
  • 1535,703,53,200臣豐成
  • 1397,702,70,2217はしめて奈良を稱し、累代かの地に住して十五村を領す、秀清二十三代の
  • 1765,715,57,634シテ、諸人悉ク懷ケリ、
  • 108,700,73,2189は、天文二十年の生れにして、秀國十二歳のときの子なり、これうたかふへ
  • 1281,2582,55,344萬松院義晴
  • 1625,661,103,572〔寛政重修諸家譜〕
  • 1312,2370,44,188初左近
  • 1269,2370,44,122秀友
  • 1093,924,39,111初左
  • 1046,921,45,43
  • 1679,1290,38,104千四
  • 1561,924,41,186尊卑分
  • 1515,923,43,192廉、豐茂
  • 1633,1289,40,94十一
  • 1637,1287,75,36十千
  • 1685,336,42,172中坊ノ祖
  • 1642,336,41,43
  • 1879,775,45,469慶長十四年二月二十九日
  • 1866,2528,40,109一一八

類似アイテム