『大日本史料』 12編 9 慶長十六年十一月~同十七年七月 p.518

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り隔心にて暇を賜る、夫より七日目、天目山の郷人六十餘別心し、辻彌兵衞, の御約束にて、井伊直政ニ據て被召出、地侍四十騎附られ、信州蘆田小屋の, 一〓を攻討しめ給ふ、其時戰勝て歸る、甲府にて、甲信の諸士、權現樣へ御禮, 印被下、然して彌兵衞にも、八百貫の御朱印を被下けるを以て、御改易にあ, 良遠江守定長か許にかくれぬ、然るを、甲陽軍鑑ニ、勝頼甲府沒落、東郡勝沼, へ赴きたる時、相從族七百人、山縣同心廣瀬三科、辻彌兵衞供しけるか、是よ, を大將として、勝頼を攻ると云は、大成僻事也、右之通、彌兵衞事は、山縣か組, る事、是又僻事也、十二月三日に、彌兵衞部下依田三郎左衞門に、領知の御朱, らさる事知へし、天正十七年、彌兵衞か弟辻彌惣か次男八十郎を、井伊直政, 成、勝頼へ矢炮射掛るニや、同年七月、權現樣甲州へ御入國の時、其祿八百貫, の節、平原宮内と言者、内に野心有故、御咎を恐れ、御前へ斬入ける時、彌兵衞, 額に疵を蒙り能働有、然るを、諸家の記録に、此時彌兵衞御改易に及と書す, は不有之、若し甲州東郡に郷士に辻黨あれは、態と彌兵衞と名乘て物主と, をは、十ケ年已前はなれ、持弓頭となり、七ケ年已前、信州へ蟄居して、甲府に, に仕へしむへき旨鈞命有、翌天正十八年、北條亡て、權現樣關八州へ御國替, 慶長十七年三月二十日, 五一八

  • 慶長十七年三月二十日

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  • 五一八

注記 (17)

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