『大日本史料』 12編 9 慶長十六年十一月~同十七年七月 p.517

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ニ、辻如此フルマイケルト也、時ノ人大ニ感シケリトゾ、, 申付ケレハ、彌兵衞則追カケテ打ントス、科人モ走リ出シテ退ケルカ、辻間, 一同に、勝頼へ諫言の刻、彌兵衞も其列たりしの、忠言耳に逆ひ、却而罪せら, の制札の立ものに、自筆にて書付し是を給ふ、長篠軍の後、生殘る長臣物頭, るへき樣子ゆへ、暇を乞て、天正三亥七月下旬、甲州を退き、信〓與良城主與, しか、同四月朔日より、信玄、騎兵五人、持弓五十張預け、加恩八十貫ありて、金, 近クナリテ、道ニテ蹴マツイテ倒レケル、彌兵衞起アカリテ追ケル、ソノ内, 度、感状十七通を得たりしが、永祿四六月七日、信州か嶽にて討死す、其子四, 玄近習四拾五騎之内、母衣役にて、小幡虎盛か聟なり、一生の場數二十八ケ, 春、廣瀬三科と武邊公事をなしける者也、夫迄は、山縣三郎兵衞か部下なり, 同年九月十日、十七歳にて川中島軍より、度々の高名抜群にして、天正元年, ニ科人走リヌケテノカレニキ、此科人勇剛ノモノニテ、人々惜ミケルユヘ, 人、嫡子彌兵衞盛昌、二男彌惣盛房、三男宮内盛次、四男は出家す、彌兵衞盛昌, 〔續武家閑談〕ニ甲陽の辻氏は、逸見の末流也、天文の頃、六郎兵衞盛良信, 〔前橋舊藏聞書〕一武田信玄ノ備先ニテ科人アリケルヲ、辻彌兵衞ニ被, 甲州退散, ノ理由, 慶長十七年三月二十日, 五一七

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  • 甲州退散
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  • 慶長十七年三月二十日

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  • 五一七

注記 (19)

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