『大日本史料』 12編 20 元和元年五月 p.208

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云なす地名也となり、爰にいつ比の事にや、小較の師を業として、島津家ニ, して落來り、則木下は秀頼居所、眞田は大助か居所なりしと、夫ゟ斯は今ニ, しきを身ニまとひ、只大酒をのみ好み、何等の産業もあらす遊ひくらすな, 稀人の子なりし由、しかれとも父の稀人の名を知らさりしとそ、若年ニて, れと、金銀の支もなく、何方よりそ貢し者も侍りしや、一生豐ニて終りしと, 大坂の主將秀頼、自害と僞りて、其實は薩摩へ落給ふと、區々の世説有ニ付, さあれは百年内外の事にも侍るにや、件の小皷打の母は、彼木下ニ住ける, 父ニ分れたる故、其名さへ辨へけれは、委しき事抔しるへきニあらねとも、, 子共心ニ覺て、父は大男の惣髮にて、一生涯麗服を着せす、常々絹布の新ら, 仕へし者あり、其師たる者ゟは寛政年中の比、彼家三四代目ほとゝ思ふ也、, て、薩〓の執政市田勘ケ由ニ、近州彦根の藩士西尾隆治、此事を尋しとそ、, の地名ニ、木下、眞田といへるありく、一續きの村なり、秀頼は眞田大助守護, なん、然るニ在世の内は、折節囘國の六部又は山伏樣の者來りて、或は一夜, 薩摩にても、専らさま〳〵の雜説有事なれ共、是とて證據も承らす、尤薩州, 勘ケ由か曰、いかさま左樣之事も侍りしや、, 由は元彦根の藩士なるか、薩〓, 市田家の養子と成しとそ、下略, 勘, 眞田大助, 秀頼ノ遺, ノ住所, 秀頼及ビ, 子, 元和元年五月八日, 二〇八

割注

  • 由は元彦根の藩士なるか、薩〓
  • 市田家の養子と成しとそ、下略

頭注

  • 眞田大助
  • 秀頼ノ遺
  • ノ住所
  • 秀頼及ビ

  • 元和元年五月八日

ノンブル

  • 二〇八

注記 (25)

  • 1104,619,61,2223云なす地名也となり、爰にいつ比の事にや、小較の師を業として、島津家ニ
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