『大日本史料』 12編 20 元和元年五月 p.221

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也、逢は途中ニふも無心を言ひかけこまるといふ事也、, れなく答たれとも、落往かれし上は、凡にしてさし置れしものなるへし、關, は、秀頼たいとうにて町中をあばれあるくといふ、殿ゟ仰渡されは、此御人, といふ、下町の上かた問屋に木むら權兵衞といふ人有り、是木村長門守跡, 墓有り、八ケ年跡に、京の繪圖を入たる筥をほり出したり、是も大坂人の品, らす、大坂の人々此邊に住し、浪人姿にて世を送ると見へたり、俗に云傳に, に一切無禮のなきやうにとの御觸にて、人々其生醉を見候へは逃るとい, 囘向をしたる地藏ともいふなり、上町右地藏堂の裏に池の權現といふ石, 下に五輪の塔あり、南西に公家束帶の像あり、苔むして誰の石碑と云を知, 上町の地藏堂は、秀頼公乳母の子女老母等御跡をしたひ吊ひ、堂を立、朝夕, ふ、これ大坂秀頼公なるべしといふ、武家にもよらぬやうに逃隱れすると, 東よりさのみ根を掘ての穿鑿もなかりし成へし、落られし時の事を以て, 鹿兒島文章に見ゆる秀頼大坂陣前、島津家と往復の書にては、島津よりつ, しかるへくおもふ筋有、, 〔薩摩風土記〕人, 〔薩摩風土記〕人谷叩の町はつれに木下角といふ處あり、赤松の大木の, 谷町の町はつれに木下角といふ處あり、赤松の大木の, 地藏堂, 秀頼帶刀, 來ス, 二テ谷山, 秀頼囘向, ノ爲メノ, ノ町ヲ往, 元和元年五月八日, 二二一

頭注

  • 地藏堂
  • 秀頼帶刀
  • 來ス
  • 二テ谷山
  • 秀頼囘向
  • ノ爲メノ
  • ノ町ヲ往

  • 元和元年五月八日

ノンブル

  • 二二一

注記 (26)

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