『大日本史料』 12編 1 慶長八年二月~同九年二月 p.111

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るを、他所へ引うつされ、ため池をほられて、其土は、今の安藝守のやしきな, むかしの肴市場故に、今も市たつ也、又今の日比谷門のあたりも、町屋なる, を見るに、寛永の初まては、赤坂の邊、麹町の邊ハ、伊賀衆の知行所の田地な, の邊まては、海入こみたり、これによりて、今の芝口の邊、井上玄徹やしき前、, 築たてしといふ、その海邊を築たてしなりといふ、又、伊賀衆より出し書付, との臺となり、夫より、堀をほり〓されしといふなり、さらは、牛込なとを堀, を、後に武士やしきになされし故に、町は引うつされて、日比谷といふ町有, とのの御やしきを、後に、越前の下やしきに被下候故に、屋敷近くの故成へ, 酉火事後、又今の新吉原へ移されたり、されは京橋の邊よりして、日比谷門, 今の門よりは、大きに程隔たりたり、今の日比谷のあたりを、陸奧守の地を, 承り也きと、越前衆のいふなり、これは、今の松平中務の屋敷は、もと上總介, ふ有、これは、その所に傾城町有しなり、中頃に今の境町へそれを移され、丁, つつけられしも、其時に出來しなるへし、淺草橋御門は、越前の宰相殿の御, いふ、今の靈巖島は、母かたの祖母の旦那の、靈巖寺の雄譽, に出來しなり、これによりて、京橋邊の町の名に、今も大坂町、住吉町なとい, し、又重羽, ○僅部, 六太夫, 慶長八年三月三日, 一一一

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  • ○僅部
  • 六太夫

  • 慶長八年三月三日

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  • 一一一

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